書評


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はじめに

 書店を訪れるたび毎回感じるのは、世の中には何て沢山の人間が居るんだろう、ってこと。それ自体が私に眩暈を催させる。溢れる言葉、言葉、言葉、それがズラーッと並んで。それぞれが皆自己主張している。ものすごい喧騒。そのなかで息を呑む小さな小さな自分。大海原でたった一人、嵐に遭った小船に揺られている感じ。その感覚は実は 「間違ってる」 んだけど、そいつを押し返せないときが多い。特に元気がないときには。
 何が 「間違っている」 かといえば、そこにある一つ一つの言葉じゃなくて、「全体」 を意識していること。自分をそこに居る一人一人の人間と向かい合わせるのではなく、一対六十億という構図に置いていること。それは世界全体を掴んでやろうという無茶な欲望の裏返しと言えるだろう。いや、本当にそれだけ強い欲望を持っていればたいしたもんだ。だけど実際には、それは自分が受身になっていることを示す。主体性を持って生きているとき、人は自分がどこへ行こうとしているかわかっている。当たり前なくらいに。自分が欲しいものが判らないからこそ、欲望は無茶なところへ行くんだ。そうして打ちのめされる。阿呆らしい。

 今、「書く」ということを生活の一つの核としている。表現することが自分を元気に保つために大切なことに思えるから。そんななか、本を読むことが 「消費」であるような気がしてしまうときがある。でもそれも違う。読み方次第で、それは豊かなときにもなれば、ただ通過していくときにもなる。要はバランスだ。生を切り売りするのはやめようよ。もらった、あげた、の損得勘定なんか止めて、ただ自分を積上げていけるように。
 本を読むというのは人と出会うということ。日常出会う人には居ないような、魅力的な人間に出会うこと。それで自分の生を 「効率よく」 豊かにする。もちろん本なぞ読まなくたって学ぶことはそこら中に溢れている。自分を前向きに生かす知恵は「言葉」に現わされるものだけではない。でもどうせ僕らは言葉を使って生きているんだ。せっかくだからそれをきちんと受け止めよう。異質なもの、自分を超えるものに出会うことは、生命力を磨いてくれる。自分をちゃんと研ぎ澄ましていよう。せっかく世界が豊かでも、準備されていない心には判らないんだから。自分を圧倒し、壊してくれるような出遭いが欲しい。単なる共感を超えて。
 (2003年10月27日記)

 本はそれなりに読み続けているが、それを血となり肉となるように読み込み、丁寧にその書評を書こうとするのは大変なことだ。情報過多の世の中、消化できるキャパを超えてもとりあえず脳みそに放り込み続けていく、そういう方法を取らざるを得ない面はある。それもそれでいいとは思うけど。だけどそのうちに惰性がついて、 「本物」 に対してまでそれをやるようになっちゃ駄目だな。感性を鍛えておこう。
 (2003年12月14日更新)