11/27読了。老妓の凄まじい女性性と、それに呑みこまれていく男。ユングの太母のイメージに近いかもしれない。日本社会の一つの典型的なパターンなのではないか？
（評論）
−柚木の心理
柚木は「本物」を求めているか？
彼自身に意識されたものを見る限り、
発明という創作行為は彼にとって「手段」、「道具」でしかなかった。
彼の発明に対するモチベーション、パッション、いろ気、
というものを支えていたのは「金を儲ける」ことだったのだから。
そういう意味で、彼が満足行く生活を送ることができるとき、
彼の中から情熱が消えていったのは必然的なことだった。
求めていたものはもう得られているじゃないか、
これ以上一体何が必要だっていうんだ、って。
それでは彼は何故逃げ出すのか？
彼は考える。
老妓は自分にできなかったことを諦めず、それを貪欲に追い掛けている。
そうしてそれを彼にやらせようとしている。
「彼は諦めることができる」のに、不憫な彼女はそれをできない。
そんな無体なことに巻き込まれるのは嫌だ、
できることなら「羽根布団のような生活に潜り込みたい」、と。
彼は「本物」などというものを信じることはできない。
その上で彼が本気では逃げず、再び老妓の元へ戻っていくのは何故？
経済的に楽な環境がそこに補償されているから？
「本物」を追い求めるドロドロとした世界に惹かれるから？
テクストを読む限り、それは明示されていはいない。
彼はただ何となく寂しくなって戻るのだ。
その寂しさは、一体何なのだろう？
著者はここで、柚木の心の奥に隠された、
ぼんやりとした「本物」への欲求を仄めかしているように思える。
頭ではそんなものは否定しているにも関わらず。
老妓を憐れむような思考はとってつけたようなもので、
実際には「化けかかってる」と言うほど畏怖すべき対象なのだ。
彼はただ強力な磁場を発する老妓の周りをグルグルと廻る。
だが彼が化物と呼んでいるのは、実は老妓という人間そのものではなく、
背後にある「本物」の引力のことなのではないか？
彼が思考の中で「本物」を否定し続ける限り、
逃避と帰還は繰り返されるだろう。
生の不条理として。巨大な矛盾として。
彼の心の奥底では「本物」を求める炎がチラチラと燃え、
さりとてそれは水を浴びせ続けられる。
焼き尽くす炎と虚空の中の静寂、その生のダイナミズム
ちなみに柚木とみち子との関係はどうなっているのだろう。
彼はみち子との関係を「おかしい」という。
それは何故？
一瞬の稲妻のように走る情念がそこにある。
だったらいいじゃないか、そこに身を委ねたって。
身を委ね、ダメになったらまた次へと、
そうして転がっていけばいいじゃないか？
それが何故「おかしい」のか？
彼は「本当には」彼女に惹き付けられてはいないのだ。
裏を返して言えば、それは彼が女性に対して「本物」を求めていることを示す。
受身にひきずられる形に抵抗する彼の心には、
無意識的に守られる「本物」への志向がある。
彼の悲劇は、意識が「本物」を否定することに由来している。
蓋をしてしまったところで、それは消えやしないのに。
無意識に押し込まれた「本物」への憧れ・欲望は、
彼の人格を混沌に陥れる。そうして己の制御能力を失わせる。
ここで彼が取る「べき」道は何なのだろうか？
�� 確信犯として「本物」を追いかける道
�� 「本物」を完全放棄する道。→ それまた「本物」？
�，龍饌療�方策
老妓の期待するものではなく、自分が欲するものが何かを見極め、
己の進む方向を定めること。
ただ他人のものさしを当てはめないこと。
それはどんなに小さなことでも良いのだ。
もしもまた満ち足りなくなったならば、もう一度改めて発明のことを考えて見ればよい。
それは本当に金を儲ける手段に過ぎなかったのか？その行為そのものに喜びはなかったのか？
現実に「本物」を完成させることは必ずしも重要なことではない。
「本物」を追いかけ続けることが、人を救う。
それはつまり、自分の意識が、無意識が、身体が、
本当に求めるものを探し、満たそうとし続けること。
�△龍饌療�方策
「本物」など存在しないと高らかに宣言しうるのであれば、
もはや柚木は何を悩むこともない。
そのとき全ては許されているのだから。何も心苦しく思う必要はない。
みち子との関係に身を委ねればよいし、老妓には甘え続ければよい。
逃げたくなれば逃げればよい。今の状態を繰り返したっていいし。
万物は流転する。ただその流れに抗わずに流され続ければよい。
死がゆるやかに迫ってくるまで。まどろみ続ければいい。
それにしても「本物」を否定するということは果たして成立し得るだろうか？
それは「前に進むこと」、「成長すること」と関係している。
前があるなら、成長するなら、それは「本物」に向かっている。
「本物」を期待する傾向は、人間の根本、
いや生物としての根本にある動機と密接に結びついている。
それを否定するとき、人は永遠の停止状態に陥るはずだ。
人は「本物」を求める「感情」を抹殺できないのだ。
それを敢えてしようとするとき、押し殺された感情はやがて逆噴射する。
そこに待つものは荒廃した狂気。
「本物」を求めることが狂気で、それを諦めるのが正常という世界。
それはあくまで意識の表層での出来事に過ぎない。
無意識の層で繰り広げられる世界とのねじれは
その反発力をジワジワと内在していく。
やがて虚無がすべてを飲みつくす。
−小そのの心理
老妓は求めているものを得ているか？
柚木の心理状態に比べ、老妓は求めるものに向かって
真っ直ぐに進もうとしているように見える。
もしそうであるならば命あるものとして極めて正常だ。
それが周囲には化物めいて映るとしても。
だが実は老妓の欲望は二重構造になっていると僕は思う。
小説の表の主題とも言える「本物」を求める心。
それははっきりと意識される側にある。
が、同時に、彼女のなかにはもっと直接的な、身体的な、
欲望が押し殺されながら息づいているのではないか？
柚木を抱え込み、自分のものとすること。
同時に身を委ねる先を見出すこと。
それは一つの愛と呼んでもよいかもしれない。
だが、年老いていく彼女にとって、そうした感情は
もはや満たされることのないものだと見なされている。
結果的にそのエネルギーは「本物」を求める心へ一気に流れこみ、
そればかりが前面に押し出されてくるのだ。
そもそも彼女にとっての「本物」とは一体何なのだろうか？
彼女が為しえなかったものとは何だろうか？
彼女が心から欲している（欲していた）ものは何なのだろうか？
彼女自身にもそれは全然わからないままである。
自分で成し遂げようにもどうしようもない。
ただ何か「本物」があるはずだと信じる。
そうして柚木を通じてそれが実現されるのではないかという期待を抱える。
素直に文脈にそってとらえれば、
ここでの「本物」はスゴイ発明のことだ。
発明とは多かれ少なかれ世を変えるような何者かである。
そう、彼女が求めるのは「変化」だ。
長年生きてくるなかで見通せてしまったような、
単調な反復に埋もれていくことへの絶望感、
それを一気にぶち壊してくれるような何かが欲しい。
彼女を圧倒してくれるような何かが。
「本物」の発明はこの小説の延長で実現されることはないだろう。
柚木の目指していたのはあくまで手段としての発明だ。
彼は世界を変えたい訳ではない。
あるいはぼんやりそういう想いも持っていたかもしれないが、
目的を「金を儲ける」ためだと限定することにより小さくまとまっていく。
つまり、最終的に自分を安逸のほうへ持っていければよい、と。
「変化」とは安逸ではなく、破壊なのだ。
彼の欲望は老妓よりもずっとこじんまりとしている。
だが、結局のところ「本物」の発明が実現されるかどうかなど、
老妓にとってそれは案外本質的な問題ではないのかもしれない。
柚木が脱走するたびに老妓は尊敬の念を持つ。
それは彼のなかに「変化」、破壊の種があると感じるから。
ともかくも火種があるだけで良いのではないか？
それが燃え盛る炎とならぬにしても。
彼女は柚木を手元に呼び戻すとき、
「本物が見たい」という気持は、もはや建前にさえなっていない。
彼女はただ、「取り返しのつかない」ことにならぬよう、
彼を大事に抱えていたいのだ。
逃亡はほんのちょっぴりのスパイスということで良い。
そうして彼は彼女に飼いならされ、
老妓は密かに求めるものを得る。
老妓が俳句に「華やぐいのち」という言葉を託すとき、
意識された空しさや悲しみのようなものを超えて、
心の奥底に満たされたものがあることを如実に語っていないか。
遅しと言えども、彼女の心に静かに燃える想い。
柚木との関わりを通じて彼女は何かをつかまえたはずだ。
あるいはそれは自分の生をしっかりと握ったような感覚なのか？
「本物」などというものは、実は外部にあるのではなく、
彼女自身が変貌した姿なのかもしれない。。。
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