書評


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2004/ 3/ 3 「世界を肯定する哲学」 保坂和志著
3/2 読了。

 この人の語る言葉はいつも彼自身にべったりくっついてる印象がある。客観的な世界観などまるで存在しない、とでもいうように、ひたすら主観の世界から物事を眺める。彼の小説において繰り返し語られるのは具体的な日常の普通の出来事であって、そこから結論めいたものが抽出されるようなことはない。もしあったとしてもそれはあくまで登場人物が一人合点しているだけのこと。そいつを拡張してどうこう、という気配は極力抑えられている。それゆえ、彼の言葉はある意味ではとても分かりやすいのだけれど、じゃあそのエッセンスをまとめてみようとするとさっぱり上手くいかない、というか当たり前で無味乾燥なものしか出てこない、ということが起こる。日常を生きる一人の人間の目線で語られてこそ意味のあるもの、俯瞰や抽象を許さないそんな何者かを彼は追求し続けている。
 もちろん彼が世界に対して閉じているのかと言えばそんなことはなくて、そうした表現は意図的なスタイルである。個々の体験をきちんと受け止めて消化していくときにこそ、普遍的なものが向こうから近づいてくる、その確信に彼は賭け続けるのだ。一見とりとめもなくダラダラ書き続けているように見えるけれど、彼の思想とか倫理性と呼べそうなものは、その文章のあらゆる断面からにじみ出ているとさえ言えるだろう。そう思って読んでみると、そこへの拘りはもう 「くどい」 と思えるほどだったりする。
 あるがままをあるがまま肯定して生きよう。一見のんびりとお気楽な風に描かれる世界そのものが、彼のそんな強い意志(願い?)によって支えられているのだ。その核となっている思想について少しばかり敷衍してみたのが、この「世界を肯定する哲学」ということになる。言わば舞台裏か。もちろんここでも彼の表現は俯瞰しがたく、要約しにくい構造になっている。またこの文章の中で語られている内容自体、それを撥ね付けることを是としているのだ。安易に結論だけを拾おうとするとそれは他愛もないものだったり、矛盾だらけだったりするが、ダラダラ語られることの断片断片に彼の生への確かな視線を感じさせるものがある。
 ここで敢えて僕の中で引っかかている点を挙げるなら( 「敢えて」 というのは僕自身にも突き刺さってくるテーマだから…)、彼の作品で語られる世界があまりに予定調和的な気配を漂わせることかもしれない。もういいんだ、そのままでいい、何の変哲もない日常のなかに帰っていけ、いつだって彼は読者(或いは本人に対して)に語りかける。つまりは 「癒し系」 になるのだろうけれど、どうもそこにダイナミクスを感じられない気がするんだ。一方で彼自身は哲学書を読み漁ったり、様々な文体を研究したりしながら、もう一方で大乗的な(浄土宗系の)、世界を丸々飲み込んでしまうような大らかな世界観が語られ、全てが許されているといった雰囲気を漂わす作品が提示される。内的な矛盾が作品に明示的には現れてこないのだ。それは在る意味では、自分をそして読者を「騙す」或いは「はぐらかす」形になっていると言えるのではないか?これは案外本質的なことかもしれないのだ。現代の日本社会で彼の言葉は「売れる」 かもしれないけれど、社会を変えたり動かしたりはしない。彼は 「観察者」 として自足している。世界は変わる必要が無い、これでいいんだ、と。確かにそうやって自足していくこと、コンサマトリーな感覚を持つことが、決定的に重要なことであると僕も思っている。だけど何者も捨てることなしに現状に充足していくということ、それはむしろ人をさらに逃れようの無い罠のなかに陥れていかないか?
 彼の語る世界は安定的なアガペの世界に収斂されていく。だけどそれ以前のデュオニソス的なもの、すなわちエロースが欠落しているとしたら、そこには遠からず限界がもたらされるのではないか?僕がこんな風に語ることは、ルサンチマンの発露として回収されていってしまうだろうか?果たして?

(印象に残るいくつかのテーゼ)
・俯瞰〜視覚イメージは、思考を不完全なものにする。世界はひたすら思考を積み重ねることによってしか理解できない。
俯瞰は自己像の形成に由来している。カフカのようにそれを意図的に絶つことで。

・僕らの記憶は曖昧である。
・「記憶の充足性」を思考の侵食から守る必要がある。

・人は主体的な意志や選択に関わりなく、言語というシステムに参入することを余儀なくされている。
言語の習得は辞書のような言葉の置き換えによって学ぶのでなくて、使い続けることで意味を増すシステムになっている。
言語の作り出す知識などを超えてなお、「私」が存在している。肉体が僅かに言語に先行する。

・論理とは基本的に否定によって前に進む。だが、論理とは別の「肯定」の力が働く関係が必要だ。

・夢の中では何歳になっても与えられた状況を真に受ける。
・「充実感」「リアリティ」「生きがい」というようなものは、生理学的に言えばストレスの掛かった状態。

・<宣言的記憶>と<非宣言的記憶>〜「技の記憶」「条件反射」
・無文字社会から文字社会への移行の過程で、知識や技術の膨大な損失があっただろう。
・<エピソード記憶>によって形成される「私」

・存在するということは、結局言葉の外にあるのではないか?

・構造主義は言語を差異の体系と考えた(→世界に差異付けし、分割すること)
・また構造主義は言語を”完成されたもの”と考えた。

・言語は発生において肉体を必要とした。存在していることのリアリティがなかったら、言語は生まれなかった。言語には存在することのリアリティが裏地として息づいている。

・この世界は、思考の結果によって「ある」のではない。この世界があるのは、世界にあるものが見えて、世界でなっている音が聞こえているからだ。世界とは部分の総和ではない。

・私が生まれる前から世界はあり、私が死んだ後も世界はありつづける。それを実感するために小説を書いていくのだと思う。

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保坂和志の Website はかなり充実している。そこを覗いて頂ければ僕の「偏見」に惑わされずに彼の実像を見ることができる。