意識と無意識について
(03/11/16 私信より抜粋)

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できるだけ簡単に説明してみましょう。
人間が意識できる世界、あるいはコトバにできる世界はとても限られています。
人の活動のほとんどは「自動的」に起こってると言ってもいいでしょう。
例えば文章を書くという作業は相当「意識的」ですが、
歩き方、はしの使い方、自転車の乗り方、そんなことは普通「考えて」はやらないでしょう?
嬉しいとか悲しいとか悔しいとか、そういう感情も考えたり意識して出す訳ではありません。
もっと言えば、心臓の動きなんかは僕の一部にも関わらず、まったく制御なんかできない。
考えてする訳じゃない行動を支えているのは全て「無意識」です。
無意識は身体と深い関係があります。

僕らは言葉や思考さえ無意識にしていることがほとんどです。
「パターン」に従って「自動的」にしているというか。
例えば、モミジを見たときにキレイだと思うとか、
そもそもコップを見たときにそれをコップだと思うことさえも。
コップなど見たこともないというジャングルの奥に住む人がそれを見たなら、
何だか硬い、窪んだ形を持つものが転がっていると思うかもしれない。
文化はいわば「無意識」の集合体です。
「当たり前」と考えていることはほとんど全て無意識。

じゃあ逆に意識とは一体なんだろう?
厳密に言うと意識とは一瞬のうちにしか存在していません。
例えば僕が目の前にコップがある、と思うあるいは気付く、それが意識です。
それまでは別にそこにそれがあるとさえ気付かなかったものに気付く。
僕はそれを「世界から切り取る」という言い方もします。
或いは僕が何かをしようとするとき、それが自動的ではないなら、それは「意識的」です。
つまり、例えばそこにあるペンに手を伸ばして掴むとき、
それを無意識にもできるし、意識的にもできる。
意識的な場合は、自分の身体の挙動を観察している「別の」自分がいます。
逆に言えば、その時はもはや身体は「自分」ではなくて自分の「道具」です。
デカルトはその「意識している自分」だけが本当に存在している自分だと考えました。
「我思う故に我在り」ってやつですね。

そういう観察している自分、気付く自分は、ある程度の時間しか持続しません。
意識はあっちに気付いたり、こっちに気付いたり、
あれを観察したりこれを観察したりしています。
本来意識とは、対象があって初めて存在するのです。
普通に生きている時間のなかでは、
それは存在したりしなかったりするものだと僕は思っています。
だって眠っている時にはもう意識など働いていないですからね。

ところが、現代のような忙しい社会の中では
意識はいつも働きっぱなしです。
とくに頭が良いと言われるような人は、そういう傾向が強いです。
するとどういうことが起こるかというと、
意識は「いつも」存在しているということになります。
現代で広く「意識」と呼ばれているのは、
そのひとつながりになった意識の連続体のことです。

現代の社会はその「意識=自分」というふうに考える社会です。
それはデカルト以来のもので、今ではもはや当たり前な感じさえあります。
人は意識を効率よく目一杯に用いることで、
生存をより確かにするもの、便利なものを沢山生み出してきました。
文明というのはまさにこの意識の働きによって支えられています。
文明が発展するにつれ、より複雑なもの、より精巧なものがつくられていきましたが、
それはもはや一人の人間が支えることはとても不可能で、
多数の人間のシステム=社会によって支えられています。
文明を支えるために、人は意識的であることを義務付けられます。
そんななかで「意識=自分」となるのはもっともなことなのです。

ですが実はここに深刻な問題があるのです。
自分の身体はそれこそ絶えず「自動的に」活動をしています。
実は意識などと言っているものは本来脳の一瞬の働きであって、
言ってみれば脳が自動的に「働いてしまっている」のです。
意識は置かれた環境を生き延びるために、
五感センサーから拾われる情報を処理する装置なのです。
そんな意識の機能も含めて、全体としてある種の自動装置として生きる存在、
それが本来の意味での「自分」です。
ところが身体の一部である意識のみが自分だなどと主張し出だすと、
人は生物としてのバランスを崩します。
「意識と無意識の乖離」という現象です。

僕はよく「無意識に埋没する・沈む」という表現を使います。
それがどういうことかといえば、意識が本来の意識の機能を失い、
世界の観察や制御をしなくなる(できなくなる)ことです。
これを「思考停止」と言う場合もあります。
僕がこの間書評を書いた養老孟司の本に従えば、
「バカの壁」のなかに閉じこもるということになります。
先に言ったように、意識は対象とともにあらわれ、
対象とともにその姿を変えていくものなのですが、
現代のあまりに忙しい状況の中、意識は変化の早さについていけず
情報を処理することを止める、或いは限定してしまいます。
扉を閉ざして情報を更新しなくなるのです。
真っ先に情報遮断されやすいのは身体に関する情報です。
(例えば今手を動かしている、というような意識)
すると世界と自分の身体(感情)との間の調整機構が働かなくなります。
行動や感情が「垂れ流し」になり、もはや制御されません。

にもかかわらず、社会からは「意識=自分」という考え方が強制されますから、
自分はちゃんと色々意識していると考えなきゃ生きていけないんです。
するとどうなるかっていうと、
自動装置である自分が何をやっているかを分からないままなのに、
自分ではそれを解ったつもりにならざるをえない。
そういう振りをし続けなきゃいけない。
感情的な行為さえも意識的にやっていたという風な気分になってしまいます。
そういう処理自体が極めて「無意識的」に行なわれてしまうのです。
どこまでが意識で、どこまでが無意識か、
それが見え難くなっているのが現代人の抱える一つの病気ともいえるでしょう。

現代において元気で生きていくためには、
意識と無意識のバランスを正常なところに置く必要があります。
そのためにも、まず自分の意識の限界を知った上で、
無意識の観察をし続けることが大切です。

無意識は底なしです。
それはごく表面的なもの、何気なく何かをするという習慣のレベルから、
「本能」と呼ばれるもの、遺伝子レベルのものまで膨大な領域を含んでいます。
その全てを知ることは人間には不可能です。
ただ少なくともそういうものがある、と知っておくこと。


ざっと書いてみましたが、多少はイメージが掴めたでしょうか?
こうしたハナシを「生の原理」の第0章で改めて説明しようと思っています。
のんびりやってるのでいつになるかは分かりませんが。。。

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