Old Diaries

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1999年(大学院生〜4月より新入社員〜10月配属)

 ◆ 1/ 1  「保留する」ということ
 ◆ 1/27  「美」
 ◆ 2/26
 ◆ 4/16
 ◆ 5/ 6
 ◆ 6/ 2
 ◆ 7/12  ある無意識の描出
 ◆ 8/13
 ◆ 8/15  経験至上主義について
 ◆ 9/ 8
 ◆ 9/19
 ◆ 9/26
 ◆ 10/19
 ◆ 11/17
 ◆ 11/28


1999/1/1 「保留する」ということ

 新年早々の話題としては妙に力の抜けるようなテーマだが、頭の中に浮かび上がったものは仕方ない。最初にキーワードを羅列してみよう。

 保留する、許す、決断と保留の二重性、可能性を見るということ、病状としての怯えと依存症、話を聞くということ、対話の成立の可否、現実対応としての自己決定とそのマボロシによる支配、detail を語りだすとき、死の許容、存在の許容、罪とは何か、法と常識、コモンセンス(良心)、John Lennnon の Imagine の語るもの、苦い逆説的な言葉の重さ、実存としての生、結果主義について、貨幣 - 商品化 - 結果主義の連鎖、責任を負うということ、現実に対する線引き、決め付けの程度問題、愛の次元、宗教の二面性 - 権力機能と許しの機能、サカキバラや麻原にどう対応するか、北朝鮮のあり方にどう対峙するか、イラクとアメリカ、ニーチェの?(クエスチョンマーク)、ずるずると保留すること、相対化(意識)と保留(無意識まで踏み込む?)の次元、保留の具体的戦略について、その先に見える不可視のもの、オレと修論、書く事と保留すること etc.

 オレが保留するのは価値判断なのだろう。「人が〜である」 というような断定や、世界が間違っている、あるいは自分が間違っているというほとんど思い込みと変わりのないような領域の判断は、正直のところオレにはしようがない。もちろん現実に直面しているとき、すなわちオレが何らかの意見を求められているとき、あるいは対話の際に明らかに相手がどちらかのサイドに立っているとき、オレは強い断定と共に何らかの価値判断をする。しかも自信たっぷりと。だからといってオレの内部、個人的な領域において、こうした判断は実は保留されている。
 保留され、頭の中で常に何らかの対立構造が成立しているとき、オレは自分の中の仮想敵に向かって強い言葉を投げつけなければならない。そうだ、心の中で結論が出ていないからこそ、断定の調子は強く、激しいものにならざるを得ない。だからといって、時として、オレはその攻撃対象であったはずのものに、自らを重ねることがある。
 当然のことなのだが、保留をしている以上、そこにいくつかの選択肢がある限り、自分はそのどれかと同一化していなくてはならない。これがいわゆる 「相対化」 の一歩先にある理由だ。相対化は一見保留と同じ態度のように思えるが、実はその地平においては自分という存在が超越者となってしまっている。つまり神になっているのだ。これで現実に一個の肉体として生きていけるはずはないのだ。肉体にあり、関係性の中に置かれているとき、人は政治的にならざるを得ない。あるいは攻撃性、党派性などのドロドロとしたものを身にまとわざるを得ない。そうでないというのは明らかにマヤカシである。そんなことを言う人は自分の無意識の領域を強く抑圧しており、自らの意識そのものが本人そのものだという自己規定がなされていくことになるのだが、これはとてつもなく不健全なことに思える。もっとも本当のところ、これはあくまで程度問題なのだが。つまり、誰しも普通の状況に置かれているときには意識そのものが自分であると感じているのだから。されど、ポイントはともかく保留にある。この場合、選択肢は明確化されていないのだが、自分が意識している自分であるということを保留する。(客体たることを拒否し、主体であり続ける) デカルトは 「我想う故に我あり」 と言ったとき、それは意識するという動きそのものの中に、自分の存在を確かめているのであって、意識そのものの中に自分を発見し、自己規定したわけではない。
 さて、では何故保留するか。人は本当は自己規定し、あるいは 「権力的なもの」 に自己同一化し、何らかの安心感、「居場所」 を見出す。だのに何故、その安らぎを放棄してまで保留をするのか。そこがこの問題の核心であろう。オレにはこれは人間が人間らしくあるかどうか、という問題とほとんど同値であるように思える。保留する、ということは自らの可能性を広げることであろう。可能性というときオレがここでイメージするのは広く他者との対話可能性というもので、多くの人は他者との対話可能性に絶望している。それは自分の能力不足のせいかもしれないのに。サカキバラや麻原、あるいは北朝鮮という国家に対峙するとき、こうした問題に対するそのひとの立場、スタンスは非常に明確化される。あるいは顕在化する。自分の対話能力の限界をどこで認めるかということ。どこで自分の思考を止めてしまうか、ということ。
 ヒトは思考をするとき、保留をしている。一歩進むのを遅らせる。物事が 「分からない」 から思考するのであって、結論が見えているから思考するのでは断じてない。もっとも更に突き進んでしまえば、結論が見えている、光が見えているから思考する、という信仰の次元の話にはなるのだが、この場合に見えているのはもはや言葉とか意識のレベルを超えた、非常に感覚的なものを見ている。それは神そのもの、絶対者である。では何故思考するのか。これも難しい問いなのだが、とりあえず現実との距離をはかり、現実への対応策を練って、自らの生存を確保するため、とでも言えようか。ただしここで生存というとき、それは物理的な意味での生である場合が多いだろうが、必ずしもそこに限定はされない。自己撞着を恐れずに言うならば、それは思考する自分という存在の成立のことである。何故思考するか、それは思考するため。そしてそれは生きていることそのものなのだ、という人間がいるのだ。観念的な人ならばこのことに同意するのではなかろうか。もちろん、そのためには肉体の生存は必要条件として現れてくるのだが。

 ナイーヴであること、信仰を持っていること、実はこうしたことは保留のための基礎条件となっているのかもしれない。Imagine の歌詞などは一見ナイーヴで、浮世離れしたものに思える。世界が一つになり、国家も宗教も全てが崩壊し、全ての人が安らかな生活を送る。人はLennon をバカにするだろうけれど、彼はそんなことを想像するのは彼だけでないことを確信しているのだ。もちろん、その背後には苦く痛々しい生活があり、いくつもの衝突が繰り返されているのだが、彼は敢えて楽観する。敢えてだ。Lennon は世の中の苦労なんか知らないから、こんなナイーヴなことを言ってられるのさ、という人たちの声が聞こえてきそうだが、それも全て分かって語っているのだ。想像力を持とうと。こんなところに精神が到達しうるのは、まさに保留という手段を持っていればこそである。
 保留するのは戦略である。極めて現実的な。対話のポイントは、どう話を聞かせるかにはない。どう話を聞くかだ。彼の仕草、雰囲気など、とらえきれるものは全てとらえ、総合的に彼の話を自分の中に再構成しうるかだ。そしてこのためには自分の中に大きな保留領域をもってなくてはならない。保留とは想像力とも非常に近いものであって、自分の置かれた現実と相手の置かれた現実を可換なものにするということである。多分それは上から見るのではなく、文字通り交換しうるかどうかだ。例えばサカキバラの言っていることを彼の言葉だけから読み取ろうとしてもそれは無理というものなのだ。もちろん、本当に彼になれるかどうかは分からない。現実的に言えばそれは全く不可能である。だからと言ってそう結論を焦る必要はないのだ。彼を分かろう、彼の話を聞こうとするのならば、自らの及ぶ力の限りに彼の中に入っていくこと、それが要求される。それは同時に 「自分」 から離れていくことでもあり、それゆえ相対化という言い方もできるのだろうが、ここではサカキバラが自分となるがゆえに、自分は比較する立場になく(神でなく)、あくまで彼と自分の交換である。そうしてこうした一連の動きが保留としてあらわれてくる。ところで余談だが、時としてサカキバラになった自分がサカキバラより彼の状況をよく把握しうるということはありうるようにオレは思っている。
 こうして保留の動きは、基本的には分からない、やっぱり結論が出ない、というところに自分を追い込んでいく。彼を分かろうとして、彼と同一化しようとする営みは常に失敗に終わる。とはいえ、本来、自分のことさえ自分で完全に分かるということが不可能であることを考えれば、どのみち同じことだろう。だがこうした置き換えの後、考える主体である 「自分」 の幅が大きく広がっていることは間違いない。そうして彼との対話は少しずつ実現性を増す。もっとも、彼が自分の無意識に対し全く鈍感で、言葉という道具を使いこなせていないときには、現実には対話は成立しないかもしれない。これはむしろ非常に一般的なケースなのだろう。対話において、一方がまたは両方が、『自分を分かっている』、そして無意識・自分の可能性に鈍感であるような場合、すなわち保留のできない人達を対話に巻き込もうとする場合には、本当には(現象としてでなく)対話は成立し得ないものなのだ。たとえ幾万もの言葉が飛び交ったとしても。この場合、相手が国会議員だろうと麻原だろうと状況は全く変わり映えのしないものになるだろう。
 だからと言って対話可能性は存在する。それは保留される。
 ナイーブであること、信仰を持っていることは、戦略としての保留の能力を増大させていくが、逆に保留する能力は将来の可能性、明るいものを見ることをより容易にする傾向があるように思う。すなわち、人を元気にさせる源となる、そんな気がする。このフィードバック回路は逆にも明らかである。つまり、人を信用できず、自分も信用できない場合には、一度手に入れたものを手放す余裕を無くす。反対向きには、自分の心の安定のための偶像にしがみ付いているときには、他者への信用はどんどん失われていくように働く。悲しいかな、偶像を崇める者達は、周囲のものが全て敵として見えるよう、着実に自分を追い込んでいく。もちろんその代償として、仲間内、共同体の中においては、非常に安定した心理状態を得ているのだが。もともとここで言う偶像崇拝者達は人類の原型であり、共同体は常に存在し続けてきたわけだが、資本主義の進展は必然的に共同体を繋ぎ、そして崩壊させていくものである以上、こうした方向は現代においては非常に時代遅れのものとなり、病状は極めて悪性のものになるという傾向がある。

 保留そのものは具体的な戦略である。それは高度に意識的な動きであり、その本質から人間の関係の広がりを指向する。また同時に、これは非常に怠け者の発想といえないこともない。というのは、これは実はあるがままの自然と自分を同一化させようという動きであり、言葉にすることをあるいは何かを創り出すことをも保留させるからである。基本的な方向は破壊であり、エロスであり、完全なる一体化への動き、あるいは回帰そのものである。これに対し、人がものをつくる、言葉を語る、表現する、という営みは、現実に線を引いて行く、現実を自分なりの方法で切り刻んでいく行為である。オレはこれを生産という言葉で定義しておこうと思う。もちろん破壊と生産は対になってこそ初めて意味を持ってくるのだが、ここではとくにその一方を考えてみようということだ。生産そのものは本来個人的な営みである。更に言えば純粋に心理的な動きである。とはいえオレが 「生産」 という言葉を使うとき、そこには必ず社会性が、他者の認識が含まれている。これはどういうことかと言えば、生産という行為は誰かのために何かをする、あるいは誰かに対して表現するという、人間の関係性の中にあるからである。ニワトリと卵のようなもので、生産は社会を意識しながらなされる個人的な営みでありながら、逆に社会というものはこうした営みの有機的統合として初めて存在するのだ。
 生産的行為は一見、ここまで述べてきた保留という態度に鋭く対立するように見える。一方が進展、発展であるのに対し、一方は遅延、停滞である。だからといって実はこれらは 「生きていく」 ということの切り方の違いのように思えてならない。つまり、生産をするためには保留することが必要となり、また、保留するためにはそこまでに何らかの形で生産をしてきてなければならないのであって、両者は常に繰り返されながら、あるいは同時になされているのだ。端的に言って、物事を抽象して表現すること(=生産)と、可能な限りのフィルターを試してみるあるいは様々な方向から眺めてみること(=保留)は、本来切り離せないものなのである。


どうして世界は僕に選択を迫るのだろう
どうして世界は僕に結果を求めるのだろう
僕はただこうして生きていたいだけなのに
だからといって、僕は僕なりの答えを
いつも状況状況で探し続けることを
止めようなどとは思わないのだけれども
世界は僕に要求する  僕は世界に要求する
それはそのようになっているのだろう
本当は焦る必要など何も無いのかもしれない
時が来れば世界は向こうからやってくる
僕は僕に要求するつもりはないんだ
だって無意味じゃないか  僕は僕
自分をわざわざ鎖で縛り付けて
一体何が面白いって言うのだろう
怠け者であることは人をダメにはしない
働き者こそ本当の意味で怠け者だと言ったら
僕は嫌われるのだろうか
ゆっくりやればいいじゃないか
どうあがこうと、僕は僕、世界は世界。


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1999/1/27

そこに彼女は居る。笑ってじっとこっちを見ている。
だのに分厚い、透明な壁が、僕を拒絶する。
皆はどこか抜け道を探してみたり、
ドリルを持ってこようとするけれど、
そんなことしたって無駄だってことが、
そんなに当たり前のことが何故わからないのだろう。
抜け道を探す間に迷子になるというのに。
壁に穴をあけたところで彼女は逃げてしまうのに。
いっそあっちを見ないようにしろ、という人もいるけど、
そんなことできるはずもないじゃあないか。
だって、そこに居るんだ、そこに。
僕は途方にくれながら、ただそこに佇む。
じっと静かに、耳を澄ましながら、
彼女の発する声を、物音を聞き逃さぬように。
僕の手は、淡々とスケッチを描いている。
いつまでたっても上達しないけれど。
描いたところでどうしようもないってことを
知ってはいるのだけれど。
そんな現実。


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1999/2/26

 小林秀雄。正しい。圧倒的に正しい。アタリマエの事を書くことは何故こんなに難しいのか。僕は多くの先人達の呼吸を感じることができる。僕は一人ではない。それを知ることができる。だのに満たされない、肉体たる、限定されたこの存在。世に認められ、社会性を獲得するために、語り続けなくてはならない、その宿命。僕は涙する。僕は絶望的な虚空に立つ。されど僕は肉体に従い、喜び、笑い、生きる。神は在る。文化は在る。霊は在る。そこに、ここに。
こんな文章を書くよりも、もっと啓蒙的な、世俗的な言葉を残したほうが、後世のためにもなろう、また社会的に食っていくことのできるような行為ともなろう。されど、それど、誰かここに来て欲しい。レベルを落とすことはできても、それはあまり面白くない!パラノイア。飛び立って行きたい。僕の言うことを余すところなく理解してくれる「保護者」が欲しい。
僕は、やがてゲームに飲み込まれていく。いつものように。暗い暗い我が家へと帰っていく。
神は我を許したもう。我が身は堕ちゆく。

 気を取り直して啓蒙的に。
 「志賀直哉論」 において小林が展開する 「リアリズム」 批判は現代のあらゆる局面において適用が可能である。科学的、合理的、現実的、そんなものの見方が世界を席巻している。いや、したつもりになっている。病状はますます進行し、言葉に、金に、記号にのみ依存する風潮はもはや末端まで行き届いている。(Marx が資本主義批判を行なったとき、こうした現代の状況を感じとっていたかもしれない)
 日常なるものがどこにあるのか、まるで感じとれなくなってしまった人達。頭でっかちな、それでいて強烈に無意識的な人の群れ。こんなことを僕が言うのはある種逆説めいた話なのかもしれない。僕ほどの観念的な、頭でっかちな人間はあんまりいないというのに。何たること。あまりに奇妙な逆転。

 ああ何故こんなことを書く。僕は人柱にはならない。僕は僕として生きるだけ。だのに、世界がこれを要求する!だめだ。強烈なリアリティは、ただ詩を残すのみ。あまりに速く、あまりに緩慢な…

−−−

ある風景

私の前にはただ漠々たるガレキの山、山、山。
目の前にふと蝶がとまる。
私は見ている。
次の瞬間私は感じる。
子供が蝶を追っている。
それは私。
子供が震えている。
骸となった蝶の羽根はやがて真黒な雲となり、
空からは血の雨が降る。
私は悪寒に耐え切れず嘔吐する。
子供は、もう見えない。
表が裏、裏が表となり
私は暗く、湿った、私の体内に退く。

虹が出る。
いつのまにか子供は走りまわっている。
私は、笑う。
ある日の風景。


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1999/4/16

 生き急ぐということ。生に全てを詰め込もうとすること。それはオレの性質。そう、もはや、オレの性質となっている。若くない。時間は無限にはあるはずもない。与えられた場で、可能性の全てをむさぼり食おうと足掻くのみ。オレは、コンプレックスからはもはや解放されているだろうか?もちろん無意識に沈着した、ある種の抵抗要素は残り続けるし、しょせん 「解放」 などというのは、それを視野におき、コントロールすることでしかないとして。多分、相対的には、もうほとんどない。じゃあ、世の中に溢れるコンプレックスを抱え込んだ人達にどう対処していくか?君子危うきに近寄らず。それは一つの解。だが、状況が 「危うき人達」 と向き合うことを要請するなら?自らがそう感じるのならば?答えは既に出ている。
 書くこと。それはオレにとって、思考をスローダウンさせること。もちろん集約させることでもありうるが、今のオレにとっては少なくとも。


世界はこんなに繊細で、壊れやすいのに、
何故人々はこんなにゆっくり生きるのだろう?
こんなに鈍感に、あるいは鈍感なふりをすることが可能なのだろう?
壊れやすいのはオレ自身?
どっちでもいい、どのみち同じ事なのだから。
あるいは眠っているのかもしれない。
「目覚めよ」という言葉がそこには届きはしない。
だが、オレの思考は、オレの言葉は、
どうもそう簡単に伝わるものではないらしい。
そう、時間がかかる。ゆっくり伝えていけばそれでいいはずなのだから。
それが残された唯一の道なのだから。
オレは、オレは吸収する。
世界を、そのディテールを。そこに生きる限り。
オレは神ではない。神がオレとともに在る。
神を見えぬ者どもは、根拠のない自信を根拠なく恐れる。
That's the way.


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1999/5/6

金をもらうこと−お付き合いすること。non-sense!
ものをつくる、生産するということは、金をもらうこととは関係がないのではないかとさえ思えてくる。社会的な表現と個人幻想との Gap 。
延々と繰り返される資本主義ごっこ。子供の遊びはどこまで続く?ゴーマン?
 何故オレはあせってる?いいじゃないか、飲まれて。やることはある。やらねばならないことはない。実際のところ、今、何もつくっていないし、何かを強制されてもいない。あるのはただのお遊戯。オレに何か言う 「権利」 はない。ただ従え?
 鋭くなること、深くなることをこれほどまでに阻害して、この人達はどこへ行くのだろうか?もちろん彼らは結局のところ勝利者なのだろう。被害者妄想?オレは誰にも攻撃されてない。オレはただ将来起こるであろうことを感じるだけ。それは妄想。オレにとってはこれほどリアルでも、「客観的に言って」 それは妄想。それとも暴走?
 そうやって人はダメになる。

 何かが違う。感覚的な、感情的な反発。それが鋭さのはじまり。生のはじまり。だが、絶対化された、偶像化された、止められた感情は、死へと急旋回を遂げる。何も感じられない鈍感な感性は存在しないのと同じこと。蠢く虫ども。人は如何にして自らを生き得るか?自分なる幻想に閉じ込められ、神聖化された汚物にまみれることに唯一の快感を見出す哀れな種族は、やがてオレを殺し、世界を滅ぼし、自らを殺す。そうして彼は神となる。素晴らしき、妄想。現実という妄想。妄想という現実。
 人は如何にして自らを生き得るか?かくも単純な、かくも明快な問いに、向かい合うことさえできないひとたち。否、その存在に、いや、存在というもの全てを無きものにせんとするひとたち。
 あはれ。


 高速に空回りするオレの脳みそは、別に質のよいものとも思えないのだけれど。やっぱりアイドリングは環境に悪い。眠くなってるときはまだ幸福かもしれない。鈍くなれ、鈍くなれ、ゲームをしろ、よく眠れ。ナマケモノほど正しいものはないのだから。エンジンストップすればそれでいい。オレに負荷を与えろ。オレに仕事を与えろ。ショート、ショート、ショート。短絡。自明のことを延々と繰り返し考えることは、精神衛生上良いことではなかろう。どうしろって言うんだ。オレは勝手に仕事を探す。書け、それでいい。暴走。何してんだ、一体?

 私は鋭いこと、深いことを愛す。無意味に意味を与えることは好まない。意味のないことに意味があるかのように、人を、自らを欺くことは耐え難い。弱き、「弱きふりをした」 輩ども。殺しあうがよい。


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1999/6/2

あてもなく、ただ浅瀬をただよう
水の上を静かに歩く
奴が目を覚まさぬように
私は誰かが私の足を引きずり込むのを感じる
それは幻?それは私の願望?
暗い暗い闇の先に、
かすかな光を見るとき、
私の目はくらみ、静かに動揺する
手を伸ばしてもよいのだろうか?
誰も答えを与えてくれるわけではないけれど
私はかすかに一人言をつぶやく
ここはあまりに、あまりに暗い
あなたは私を受け止めてくれるだろうか
そうして、気づいてみれば、
そこには何もなかったと
そんな風につぶやくのかしら?
悲しく、情けなく、
ある種の永遠性を感じさせるような、
まどろみの中へと落ちていく
それでよいのか?

−−−

くだらない、と言い放つのはたやすい
だからと言ってその背後にあるものを説明することは
そんなに易しいことではない
サボるなかれ
しかし何故?
何故そうして誇りを持って行かねばならないというのか?
何故 「分かった」 と簡単に言うことができないのか?
それは自明?
生きる人と生きない人、この構図が変わることはない?
俗物を責めるなかれ
我が身の力不足をただ見つめるのみ
狂おしいまでの心の動揺は
己の心臓を着実に滅ぼしていく
生きて死せよ
それを手放すだけでよいのだ、と悪魔はつぶやく
あわれなサタンよ、私はお前を許す
許すことがお前にとって抑圧になろうとも
ともに生きるのみ
と自分に言い聞かせはするのだけれど

−−−

夢を語れ
愛を語れ
さもなくば闇はすべてを支配する
己の魂を奮い立たせるがいい
それがわずかに残る希望の糸

これらすべては余計なこと?
僕はあの娘が欲しい
ただそれだけ?
射抜かれた心は簡単にマヒするのだろうか?
分からない
「積極的になれ」、バカ

そんな風な単純化は
全てを握りつぶしてしまう
繊細さなどは吹き飛ぶ
それもそれでよいけれど
生きる喜びはどうなるのだろう?
ひねくれ者のたわごと

−−−

言葉を積み重ねることで、
無理矢理自分の欲求を抑圧していくのは
あまり賢いことだとは思えないけれど
かと言ってこの煮え切らない想いを
どうやって抱えていくことができようか?
ほじくり返し、ほじくり返したところで、
やがては心の奥底に静かに沈んでいく
そうしてオレの中には深い深い沼が広がるのみ
そこへ、わが故郷へ帰るのか?オレは?
安らかな死、オレは呼吸をやめ、岩になる
いいのか?いいのか、それで?
足掻け、もっともっと暴れればいい
だって、このまま負けてしまうなら、
オレの心の中にはまた一つの鎖が運びこまれる
もういい、もうたくさんだ
オレは、その暗く甘美な世界を見飽きたんだ
助けて欲しい  助けて欲しい
明かりを下さい


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1999/7/12 ある無意識の描出

自らの救済を行なえぬものは、のたれ死ぬがいい。
私にはあなたが分からない。
時おり魅かれることがあるにしても、それは気の迷い。
あなたと私は住む場所がチガウ。
私はあなたに優しくしてきた。
なのにあなたは分かってくれやしない。
自分勝手で、一貫性がなくて、
マボロシばかりを追っかけている。
そんなあなたと一緒にいたら、
私の方が壊れてしまう。どこかへ行って!
苦しみはウソで悲しみは一時的な迷い。
地上の楽園なんて、ありはしないけれど、
それは仕方のないこと。楽しくしなきゃ。
コトバをもてあそんでもムダなだけ。
感じればいい、そこにあるものを。
単純な話。恐ろしいくらい単純な話。
なんでそれが分からないと言うの?
悲しいすれ違いだけど、しょうがない。
あなたは病気。あなたと私は縁がない。

−−−

くだらぬ。あまりにくだらぬ。
日々繰り広げられる宴。
何をしている、愚民ども、早く散れ。
世界はあまりに狭く、暗い。
もっとぱっと明るくなるようなことでも
気をきかせてできないものか?
血が必要だ。刺せ、つぶせ。
残虐さを覆い隠す、全てのものを焼き払え。
我が心は砕けた、もはや何を恐れよう。
滅びの時をひきつれてくるがよい。
気も狂わんばかりに泣き叫べ。

−−−

愛は、愛はどこへ行ったのですか?
私の愛を  この迷惑なエネルギーの噴出を
受け止めてくれるような、そんな愛が、
かつてあったような、そんなマボロシめいた、
それでいてリアルな、愛はどこへ行ったのでしょう?
この世にはもはや肉しか残されていない。
焼き払い、新たなる大地を切り拓け


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1999/8/13

 音楽を聴く。もっぱらSunny Day Service 。 じっくり何回も聴かないと 「音」 は見えてこない。それは危うい。歌詞や様々な情報は結果として覚えていくものだけど、先にそれが目的になりそうで。昔は、でも、それを一生懸命やってた。それが間違っているなどとは言えないのだけども。そして実際、そうしない限り、やはり 「音」 は入ってこないのだけども。オレは何を求めてる?音楽に。オレにとって逃げ場なのか?そんな難しいことを考えることはないさ。気持のいいこと。強迫される必要は何もない。仕事じゃない。バラバラにされていく。むき出しにされていく。何もできないけど、音楽やりたい、今は。

−−−

 可能性を見出すこと。奥にあるものを見つけること。無意識を探ること。決めつけないこと。そうだ、オレはやっぱりそうやって生きていくのさ。少しは元気になってきたのかもしれない。何も持っていないのに。何もできてないのに。オレに分かることなんて、ほんとに少しのことだけど、あせる必要はないじゃないか。生きてるんだ。マニュアルに追われることはない。「世の中」 に追われることはない。オレはオレ。そんな自分への励まし?甘やかし?

 オレは様々な可能世界の中で、偶然に今ある生活をしている。今してることをしてる。いいじゃないか。約束の地はこの世にはない。オレの置かれた状況で、できることをやっていく。それはボケの始まりなのか?様々な世界に心を開いてさえいれば、いいじゃないか。その開き加減を間違えれば病気になるのさ。背負えるものを背負え。忘れるものは忘れてしまえ。オレはすごい力を持ってはいない。転がれ!


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1999/8/15 経験至上主義について

 経験を振りかざす人がいる。そして時には自分でも話すのを面倒がってそれをするときがある。「若いから」、「痛い目を見ていないから」 などなど。都合が悪くなると切り離しがなされることになる。「住む世界が違うから」 「価値観が違うから」 こうした態度には基本的に 「保留」 が存在してない。すぐに結論に飛びついてしまうが故の安易な、手抜きな言葉。それは単にサボり。こういう人達に囲まれてしまったとき、どうするか。それがいつも変わらぬテーマ。これを乗り越えていくための言葉と知恵が必要なのだ。森有正の定義によればそれは 「体験」 になる。体験とは自分のなかでしっかりと消化せず、言葉を言葉として、出来事を出来事として、固着させてしまった残骸のようなもの。それをいかにして生きたものに変えていくことができるか、そんな問題でもあるわけだ。
 経験至上主義とは同時に権威主義である。権力機構を無意識的につくり出す営み。自らの城をつくり、城下の者どもを見下す。ひょっとするとこれはまた、「所有」 という観念と大いに関係があるかもしれない。自らに刻み込まれているはずの経験を疎外し、それをモノと化させ、記号と化させ、商品と化させて、そうしてからそれを所有するのだ。そうして所有のあるところには独占的傾向が生まれる。そうなるとあとは権力の形成過程そのものになる。それは空しいことではないのか?果たして。自らの貴重な経験、あるいは自分そのものを切り売りしてしまうという、恐ろしくも悲しい、そんな非人間的な営みを、平気でしてしまうのもやはり人間であるが故。悲しいかな。そう、経験とは自分を形成する要素であり、ひょっとするとまさに自分そのものだというのに。そんな空しい人間に対して、オレは一体どんな言葉を投げかけることができるか?それがテーマである。多くの場合。

 − 敢えてsharp になるなかれ。 delay が必要 −

 人は何故権威的になるか?それは自己運動。押し付けられたものは、いずれどこかに押し付けられる。「結局経験を積むしかないのさ、今の君には分からない」 そんな言葉はほとんど自明のことしか語っていない。口惜しい思い。苦い思い。それを押し潰すなかれ。無意識的にコンプレックスとして固着させるなかれ。そんなものだ、と受け入れてしまった時点で彼は既に権威の構造に取り込まれている。そうして自己運動は継続される。悲しくも。それが人類の歴史であり、背負わされたもの。しかし見よ、我々には文化があり、我々には伝統があり、我々には正義があるのだ。はね返し、はね返し、苦い言葉を吐き出しながら、創り出していく自由と愛の地平がある。それもやはり、超越論的に言えば、自己運動なのだ。知の、文化の、愛の、生の営みの、歴史の自己運動も、やはり厳然として存在しているのだ!

−−−

偶像を、記念碑を、式典を叩き潰せ!!そんな乱暴な言葉は、あくまでアンチテーゼとして、苦い思いの漏出として出てくるものなのです。それを真に受けても仕方ないのです。ただ、その想いを汲んであげなくては。怯える人たちのつくり出す幻想の世界は、別に大したものじゃあない。ハリボテなのだから。確かにそれなりの体裁を整えて、一見ものすごく現実感を持っているかもしれないけれど、それは皆でそれを支えようとしているからです。一歩引いて、そこに手を貸すのを止めさえすれば、それはモロくも崩れ去っていくのだから。弁証法を解さず、あっちとこっちに分かれて、自分の足場を省みることさえなく、互いの弱みばかりを攻撃しあって、そんな人達があふれんばかりにいることはいるのだけれど、まぁいいじゃないか。放っておけば、とりあえず。そんなことより、自分の仕事をしよう。それしかない。ガラクタは相変わらず溢れているのさ。

−−−

うーん。やはりオレには跳ぶクセがある。飛躍につぐ飛躍。これは誰にも読めまい。またいずれ slow down させたものを書こう。オレには detail の訓練が足りない。ギターのコードを覚えるように、指使いを練習するように、言葉を磨かなくては。もう少し 「世の中」 に合わせなくては。それはとっても大事なことなのさ、きっと。啓蒙的になるのでなく、detail が必要なだけ。自分をうまくコントロールしなくては。Be cool, Stay calm! それはあるいは、沈黙の重要性かもしれない。

飛び出そうとする子供をしっかり押さえ、崩れ落ちそうになる老人を励まし、オレの精神は永遠にそれを繰り返すだろうとひそかに思いながら、やはり続いていく日常。何処へ行く?何をする?絶えず問いかける。オレは健全か?健全な哲学者?フッ…。

今日も終わる。


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1999/9/8

 淡々と過ぎていく日常。一つのフォルムを持った。いや、はじめは新鮮であったはずの時間が、次第に固く融通の利かぬものへと姿を変えていく、そんな過程。何もやっていない、何も完成されつつあるわけではない、一見無駄としか言いようのない、無駄に違いない、時間。何処へ行くのか、どうなっていくのか、全くもって不明。スポイルされ、宙に浮かされ、自らの足で立つことに憧れさえ覚えるような、退行の感覚。
 たいしたことはない。いつでも、どこでも。本当に。大したことをやってる訳じゃあない。誰も。誰も?いやどこかにはいるのだろう、だけど、その密度は異様に低く、ほとんど invisible 。 まあよい。しがないサラリーマン。労働者。可能性は、本来、いつも限定されている。何かを創るか?オレには今、それだけのモチベーションがあるだろうか?多分、今はまだその時ではない。そうやって、ズルズルと引きのばされようと…。

 言葉は貧困化し、安住の思想が、感覚が、体の中に蔓延していく…。

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1999/9/19

いい風が吹く。
群青の水面にぽつりぽつりと顔を出している小さな島々。
背後には壁のように僕を取り囲む濃緑の山なみ。
さっきから五月蝿いくらいにぽんぽんと魚が跳ねている。
踊っているのか、競っているのか。
ときおり雲が太陽をさえぎると涼しい風が山のほうから降りてくる。
隣の入江で海が輝いている。
と思うと今度はこっちに光が伸びてきて、
僕は無数の光の粒子のなかで目を細める。
小さなモーターボートが漁港に入っていく。
薄い線が水の上に引かれていく。
後からやってきた友人が釣竿を振る。
魚達は相変わらず水上に舞っている。
製紙工場の高い煙突からは今日も灰白い煙が吐き出される。
平和な平和な一日。
煙草を静かに消す。

瀬戸内の初秋。


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1999/9/26


 オレは宙に浮いている。それはそれでよいのだけど。倫理を --- 実践的な倫理を自分なりに明確化させる必要があるのではないか?生きていくための知恵。正しい意味での 「経済」 。例えば、政治的に重要であるにもかかわらず、オレがしばし軽視してしまうようなこと。言っていいこと、悪いこと、その判断基準。自らの経験によって裏打ちされた知恵。どういう人を信じ、どういう人を信じてはいけないか。どういう人を許し、どういう人を裁くのか。それは非常に高度だ。しかし、生きる上で、繰り返し判断を迫られるのも確か。できれば保留していたい。だけど時間は永遠にはない、肉体には限界がある。全面的に許してしまう気持と、全面的に拒否してしまう気持と、その狭間に生きるが故に、必要な知恵。チェックリストをつくらなくては…。


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1999/10/19

 何も分からない。キンモクセイが遠のいていく。消え去りそうになりそうな意識。それでもどこまでもまとわりついてくる意識。オレは何?オレは何処?オレは生きているのか?助けてもらおうにも、何をどうすればいいのか…。ぐるぐる回る。ぐるぐる回る。遠のいていく。オレは社会的に有用な人間かもしれない。だからといってオレは誰にも何かを上げることができないのか?まだ足りない。まだ足りない。何が?いいじゃないか。どうしていいと言えない?認めてしまえば良いじゃないか、現実を。現実と幻の倒錯した世界を泳ぐ。重い鎖を引きずりながら。そんな自由。実存たることは、不条理を生きるということは、かくも狂気に近いものか?何たること。助けて欲しい、そう思うが故に、オレは人を引きずりこみ、窒息させようとする。何もしてあげられないくせに。我に死を。

あなたが溺れているとき、私はともに溺れる
深い深いところへと、沈んでいく
そこは私のふるさと、私の墓場
暗い暗い世界に、明かりをひとつ灯して
一息入れるとするか
私はあなたをはげましはげまし
浮かび上がらせようとする
そうして私をも浮かび上がらせてくれることを祈りながら
やはり私はひとり沈んでいく
あなたは浮かび上がるがよい
そうして私の太陽となってくれ
私の、醜い憎悪の的となるとも
私は神となり、神は全世界へと溶け出す
神は死んだ
私はひとりぼっちでたたずみながら、
ぬるま湯の現実のなかで窒息する
甘えと怠惰と全ての醜悪さに
その身は喰われゆく
それゆえ、発つがよい


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1999/11/17


 仕事に追われる。世界は矛盾。翻訳という仕事は難しいし、理解されぬ。かっちりとしたものをつくる必要もないが…。今の職場は抑圧的なのだろうか?オレにとって会社で働くということ自体が抑圧なのだろうか?Oという人は?open であること、息ができるということ、体験至上主義に堕ちないこと、結果志向でなくプロセス志向、「責任」 なる言葉に孕まれるマヤカシ。どうやって生きていけばいいのか?まだ我慢しなくてはならないか?戦争はいつ始まる?逃げてないか?馬鹿げた東大風は相変わらず吹く。別にだからと言って代案などないけれど。いかにして元気になろう?いかにして文句を言わぬ人になれよう?不満分子。革命勢力はいつも少数。事を起こすまでは静かにガマン?アホらしい。狂ってくるぞ、だんだん。


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1999/11/28


汚辱にまみれた心を抱えて、何処へ行こう?僕には逃げる場所はない。ここで負ければ負け続けるのは目に見えている。Tのように?Uのように?Mのように?ヤツらは、そりゃあ、オレより気楽に生きてる。でも無意識に隠された恐怖と不安は、いつもいびつに心の底に残され続けるだろう。オレは彼等を愛することは止められないけれど、自らの誇りを捨てることはしたくないし、多分それゆえに意識はズタズタに引き裂かれていくのだろう。それは…ツライ。何だと言うんだ?何だと言うんだ?世界は狂ってる。ちょっぴりの正常さを頼りに、生きていくには、あまりに狂っている。オレもじきに狂ってしまう。このままでは。狂うか、あるいは闘い続けるのか。何を大げさに、って済まされるコトじゃあない。「僕らはいつも愚弄されている」 そうだ。いいんだ。狂ったって。仕方ない。

汚されて、耐え切れない怒りを抱えて、飛び散った破片をかき寄せながら、虚無に身を投げ出しそうになりながら、愛の思い出を必死で呼び起こしながら、どこかで 「生きよ」 と命ずるものに従うしかない。そう簡単じゃあない。生きていくことは。我に正義はあり、そんな風に言えたなら、どんなに心強いことだろう。僕は弱いのです。複雑なのです。矛盾を、そう山盛の矛盾を抱えて生きているのです。苦い思いを飲み込みながら、狂気の迫り来るのをヒシヒシと感じながら、それでも現実を生き、関係を生きるのは、一体どうしてなのだろうか?それは神かもしれないし、実存そのものかも知れない。抽象的にしか表現されえぬものどもを僕は何故こんなに沢山引き受けて、歩いていこうとするのか?世界は暗い。明かりを灯そう。明かりを灯してください。


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