日々の雑感

はじめに
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(2003年8月以前の日記)
Old Diaries



2003/12/2 (Tue) 内在化される市場支配
気がついてみれば師走。
今年は妙に暖かい日が続いているので、
本当に冬という感じはしないのだけれど。
でも確かに木の葉は色付き、散っていく。
京都に来てから3ヶ月ちょっとになるか。

しばらく雑感を書いていなかった。
書きかけて誤って消してしまい、萎えてたこともあるけれど。
欲張っていくつもの作業を同時並行で進めているため、
ちょっとキャパを超えてしまっているのかもしれぬ。
焦っては事は進まぬもの。
自分で自分に課している作業だというのに。

昨日、今後の就職先のことをしばらく考えていた。
ウェブ上の就職・転職情報なんかを眺めながら。
翻訳をするか、それともまたエンジニアをするのか。
当面は自分のメインの仕事を「書く」ことに置こうと思っているので、
拘束され過ぎず、深入りをせずに
とりあえずの生活費を稼げればいいんだけど。
だが都合の良いハナシはなかなか転がっていないものだ。

大阪の技術者派遣会社のHPを覗く。
こういうパターンもありかな、などと思いながら2chで情報収集してみる。
怪しげな情報源とは言え、背景を読めばそれなりのことを掴めるものだ。
どうやらそこはかなり酷い環境らしく、それだけでゲンナリさせられる。
ある意味タコ部屋みたいな感じかなぁ。
他に仕事がなきゃ、まあそういうのもアリとは思うけど。。。
いずこも同じ秋の夕暮れ?

ああ、また身売りかぁ。
嫌だ、嫌だ。本当に嫌。
「本物」を創ろうとしている人は居ないのか?
それだったら全てを投げ捨ててもコミットするんだけど。
仕事なんて結局金を得るための手段でしかない?
閉じた共同体(会社や家族)を維持するための手段?
金を稼ぐためには自分を細切れに商品化しなきゃいけないのか?
僕は再びそこに吸い込まれていくしかないのか。
生活を立てていくために。ただそれだけのために。
人の生とはそんなもの?

かと言って、今の自分に一体何ができているというんだ?
この楽な状況でさえ「これ」と言えるものを何も創りだせていないくせに。
人に認められるような「本物」を創らなければならない!
猛烈な不安に襲われる。居ても立ってもいられないような。
そうして「仕事をせねば」と思って再び文章を書こうとするものの、
一歩も前に進めぬ。。。

心を鎮めるために瞑想をする。
30分くらいたつと、スッと気持が晴れる。
粉々になっていた自分が静かに統合されていく。

違うんだ、そんなことじゃないだろ、お前が求めているのは。
沢山の人に認めてもらうこと=「本物」では断じてない。
それは市場を絶対視する発想のしかただ。
そんなモンを心の中まで食い込ませるのはアホらしい。
迎合なんてするな。時おり強烈な恐怖に襲われるとしても。
殺されたらいいじゃないか、それはそれで。

お前が会社を辞めたのは一体何故か?
道徳的に腐敗した状況に、正義の鉄槌を振りかざすため?
バカも休み休み言えよ。社会なんか呪ってどうする?
「倫理」という言葉を使って考えていたのは、
主体的に決めたルールに従って生きろ、ということだろ?
自分が会社に残ることに価値を見なかった、
それを煎じ詰めれば、そこで生きていくのが面白くなかった、
生き生きと生きていない、そういうことじゃなかったか?

ちゃんと冷静に考えて見ろよ。
本当は文章を書くことにだってしがみ付く必要なんかないだろ。
まずはちゃんと生きろ。
心に爽やかな風を吹き抜けさせながら。
ニヤニヤ笑っていればいいんだから。

もちろん人に対して発信をすることを放棄しちゃダメだ。
言葉は本来人に向けて発されるものなのだから。
普遍性が成立するのだから。
生物はそうして秩序を形成するのだから。
「市場」に対して言葉を発するようなナンセンスに巻き込まれるな。
たとえ世界中がそうなっていくとしても。
俗世のことを強迫症的に煩うな。
それはあまりに馬鹿げてる。
そこは神に見放された地なのだから。

心を鎮め、身体を動かし、部屋を片付け、日記を書く。
人と語り、美味いものを食い、歌い、
喜び、怒り、悲しみ、笑え。
それが生きることのエッセンスだろ。

安易に心なんか売り渡すなよ、バカ。

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2003/12/7 (Sun) 夕陽の沈む場所
ここ数日間、中国から帰ってきた妹が僕のところに滞在している。
天津から神戸港に到着し、そのまま寄り道という感じで京都に来た。
狭い部屋ではあるけれど、特別不自由はないみたい。
「中国に比べれば」という言葉は妙に説得力を持っている。
のんびりと二人で色々なことを話していた。

向こうで一年半ほど通っていた大学院をやめてきた。
「日中交流」「環境問題に取り組む」みたいなお題目を掲げて、
勢いこんで設立された新しい学校だったんだけど、
結局運営が全然上手くいっていないらしい。
何だかもう沈む直前、みたいな感じで。
本来支えるべき人がまるで無責任なんだろうな、きっと。
安全なところからの発言しかできない批評家、コメンテーター。
ほんでもっていざ事が起これば転じて被害者。
どこまでも無意識的で主観的。

彼方此方で同じパターンを見るようで、
何だか本当にゲンナリしちゃうな〜。
妹も夢を抱いて出かけていっただけに、
随分一生懸命サポートしようとしていたんだけど、
そのまま残っていてもただボロボロになるだけだったから。
生徒っていうより、仕事してきた感じだな、こりゃ。
ま、本人は気持を決めてから随分すっきりしたようで、何やら元気だ。
その元気を少し分けてもらいつつ。

こんな機会だからこそ、一旦「仕事」から目を逸らしてみる。
解放されて帰ってきた妹に合わせ、こっちも多少気持を緩めて。
何度自分に言い聞かせたところで、一人で生活をしていると
どうしても焦ってしまう気持がすぐに出てきたりするんだ。
自分の気持を制御するのは本当に難しい。
ちょっとしたきっかけがあればいいのさ。
良いきっかけ。

さっさと片付けようと思っていた書評に思わず手こずり、
ちょっと行き詰っていたところ。
真木悠介の「時間の比較社会学」を何度も読んで。
他者を正確に理解するということは本当に難しい。
強い共感を感じれば感じるほど、
その中味をしっかりとした言葉で語ることがまどろっこしく思えたりして。
それでも自分の言葉で語りきれない事柄は、
無意識の奥に沈んでいってしまうような気がして。
ま、それもそれでいいんだけどな〜。
所詮意識化できることなどは、どうしようもなく限定されているのだから。

で、しばし自分に「受身」になることを許容してやって、
お預けにしていたこれまた真木悠介の
「気流の鳴る音−交響するコミューン」を読んでいる。
やっぱり彼はスゴイ。
「本物」を創る人がいる、というのはいいことだ。

なんてことを考えながら、いつも通っているスポーツセンターへ。
日曜日はプールも比較的空いていて気分が良い。
一人で一コースを占有できるとちょっと至福の気分を味わえる。
柔らかい冬の光がガラス越しに差し込んでくる。
壁を蹴り、身体を2度3度くねらせて透明な水の中を静かに進む。
少しだけ魚。
浮かび上がって行き、ゆっくりと腕を振り上げる。
時が消えていく。

帰りがけ、火照った体を引き摺っていき、再び自転車を漕ぎ出す。
コンビニでウーロン茶と肉まんを買ってから、賀茂川の土手を北上する。
前を行く自転車に乗った赤いおそろいのコートを着た父子。
"Hold on now..."という発音が英国人っぽい。
子供は3歳くらいかな。

まだ4時過ぎだというのに既に空は赤っぽい。
一年で一番日が短い時期だ。
彼方の西山に太陽が落ちかかっている。
千切れてばら撒かれた、綿を引っ掻き回したような雲。
その雲がまるで光源から流れ出しているよう。
まだ陽の当たっているところに辿り着くと自転車を降り、土手に腰掛ける。

肉まんを一気に食べながら、じっと太陽を見つめる。
刺すような光に目が眩む。
目を細めると太陽の輪郭がうっすらと浮かぶ。
それが徐々に山に食われていくのがわかる。
吸収は速やかに進んでいく。
眩しさが消えてしまうまで、ただそれをじっと眺め続けていた。

最後の光の一点が消えてしまったとき、目を見開く。
視線を転じて東を見ると、宙に鳶が静止していた。
川沿いを眺めると、ちょっと先のところで例の父子も静止していた。
何を思うんだろう?ターナーやクラウドのような美的感覚?
笑止。いいじゃないか、何だって。
ぼんやりと夕陽を眺めることくらい、「普遍性」に残しておいてやれよ。

夕陽の沈む場所は近くて遠い。
静止せよ。
しばし。

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2003/12/7 (Sun) 死を恐れるか、ひとりぼっちを恐れるか?
昨日は部屋で鍋をした。キムチ鍋。
恒例化している観もあるが、これは何度やっても良い。
今回は妹がゲスト。
ちょいと具材を買いすぎてしまってまだ残っている。
明日は鍋焼ウドンでもつくろうかな、などと考えつつ。。。

何となく互いの昔話などをしながら、
ふと友人から投げかけられた一つの課題がゆるゆると頭の中を廻っている。
彼が中学生の頃にふと気づき、鮮烈なまでに刻み込まれたというそれが。

  意識(=自我)がこの世から消滅することへの恐怖。

色々考えて見た。
今取り組んでいる真木悠介の「時間のニヒリズム」の問題と
密接に結びついているテーマでもある。
「時間のニヒリズム」は自我の消失に対する恐怖ゆえに帰結される。
僕はぼんやりとそれを自分自身が抱えこんでいる恐怖だと考えていた。
だが果たしてそれは本当に本当だろうか?
それはどこまで自分の内に食い込んでくる恐怖だったろうか?
それは他人の抱える問題への自己投影ではなかったか?

僕の中にも恐怖がある。それは確かだ。
それは僕を「焦り」に導く何者かだ。
だが、ひとしきり自分の過去を思い出してみたところ、
どうやら僕は自我の消失に対して本当に恐怖したことはないように見える。
過去のことにせよ、友人の語る生々しい恐怖にすっと共鳴できなかったのは、
僕のなかにその体験が欠落していたからではないのか?
僕の生身の恐怖は、その外にあるのではないか?

そう、違うんだ。
僕の恐怖の根源はむしろ「共同性からの疎外」にある気がしてならない。
誰とも何ら共有できないくらいなら死んでしまいたい。思考停止したい。
それ自体はそれほど不自然なことじゃないだろう。
俗っぽく言えば、「ひとりぼっちになるのが怖い」ということだから。

ひとりぼっちになると、脆い人間は自分を支えきれず死んでしまう、
だから結局それも同じところに収斂する問題だ、とこれまで思ってきた。
結局のところ、人は死・滅びを恐怖しているに過ぎない、と。
が、それはリアルな恐怖ではなく、論理として考えたことなのだ。
今改めて考えて見ると、それはどうも違うんじゃないかと感ぜられる。

今日、夕陽をぼんやりと眺め続けながら、
半無意識的な思考を通じて、そのことを確認していた。
個の歴史は生命の歴史よりも浅い。
共同性は「個」なる意識に先行している。
「僕」なんて消え去っていいんだ。実際のところ。
だけど守るべき何か、残すべき何かがある。そういう感覚がある。
それは僕が最近「本物」と呼んでいるようなもののなかにも孕まれている。
僕の中にその種があるからこそ、僕は「僕」を大切にしたいと思う。

ところが事態は必ずしも単純ではない。
僕自身は極度に「個」を貫いているタイプの人間に見えるのだから。
客観的に。現象として。
ひたすらに思考停止を回避しようとする人間でもある。

友人は言った。
「それ」が怖くないのはきっと「自分に自信があるからだ」、と。
あるいはそうなのかもしれない。
確かに思考する自分に関してはいつも目一杯まで生きて満足しているし、
いつの時点で死んでも良いと感じられるところはある。
だが、それでもやはり恐怖はあるのだ!
そいつは一体どこから来る?

案外ここには意識と無意識の相補性が働いているのかもしれない。
僕は無意識から、身体から自分自身を疎外してきた。
それ故そいつらが叫ぶのだ。
「個」が走り過ぎている!
共同性が足らない!
この事態を警戒せよ!と。

。。。

ダンサー・イン・ザ・ダークのセルマのことを考える。
彼女は何故ああいう形で死を受容したのだろうか?
彼女は極めて主観的なレベルで「共有されるもの」を守って死んでいく。
不条理を不条理とせず、むしろわざわざそれを拾いに行くように。
僕にはそこに「本物」らしきものが存在するように見えた。

或いはシューマッハーで見たアメーバの自己組織化のビデオ。
アメーバの集団が危機的状況にあるとき、
ある一個の個体が信号を発すると、周りの全ての奴らはそこに結集し、
やがて連結して植物のような一個の個体となる。
が、最初の個体は真っ先にその茎や根となって滅するのだ。
そうして滅していく細胞と化した個体群の上に、
新たな共同体としての生命が息づく。

僕のなかに奇妙な直観があった。
自我の消滅を恐怖すると言ったその友人が、
実は僕なんかよりずっとセルマのように死んでいきそうじゃないか?
そうして僕などはズルズルと生き延びていくんじゃないか?
何だかそれがとても確からしいことに思えた。

真実は思考の裏を行く。

本当のところはわからない。
最後に友人が言ったように、結局は同じこと、なのかもしれない。
同じコインを裏表のどちらから見るかというだけで。。。

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2003/12/12 (Fri) 走り続ける〜それはやがて集約した思考へ 1
この一週間のこと。
平日月曜から金曜まで。
サラリーマンの勤労の一サイクル。
あぁ、あまりに色々な出来事が僕を駆け抜けていく。
目一杯に生きてる。吐きそうなくらい。
でも、これってきっと、生の充実なんだろう。

12月8日 月曜日。

妹と一緒に友人の陶芸家のグループ展を観にいく。
祇園のアートスペース八源。
若い新鋭の陶芸作家たちが、丁稚奉公の合間に創った作品達。
開催初日の昼、客は僕ら二人。
応対担当の作家は友人ともう一人。
ゆっくりと想いを込めながら、解説をしてくれる。

銅の深い蒼。
鈍い天目の煌き。
にこやかに笑う恵比寿さん。
登り窯でこその鉄釉の味わい。
なめらかな曲線を描く青磁のコーヒーカップ。

静かなひととき。嬉しいひととき。
彼らがどれだけのものにぶつかりながらそれらが創りあげてきたか、
僕の理解が及ぶのはほんの僅かなことに過ぎない。
ただそこに息づく確かなものを感じて勇気をもらうだけ。
楽しくなきゃ、ね。
喜びがなきゃやってらんない。

妹を京都駅まで送り届けてから帰宅し、
しばらく先延ばしにしていた仕事に取り掛かる。
クリシュナムルティ対話集−検証+実験記録というHPを創っている人との対話。
クリシュナムルティと正面からぶつかるその人に、
僕は一体何を語れるだろうか?
まずは小手試し。真剣に。
集約した思考のはじまり。
気付くと3時。
あぁほとんど眠れんな、こりゃ。


12月9日 火曜日。

予定通り、6時30分頃には友人の電話で起こされる。
泊りがけで福井・滋賀との県境に近い、芦生演習林へ。
友人が4年近くに渡ってほとんど毎週のように通い続けた場所。
彼はそこでひたすら雨を集め続けてきた。
ようやくその地道な作業が終わりを迎える。
周囲の影響を最小限にとどめるために地上6mほどのタワーを組み、
そこで採水をしてきたのだが、その解体をするのだ。
雪が山を閉ざしてしまう前に。

車で向かう途中、雨が降り出す。
恐ろしく寒い日だ。多分今年一番の冷え込み。
おまけに雨か。。。
気乗りせぬまま現地に到着すると、
豪放な教授はそんなことに躊躇することもなく、
軽トラに乗り込んで解体へ向かう。

寒い。とにかく寒かった。
冷たい雨に打たれ、泥まみれになりながら、
4人で鉄パイプと丸太とビニールシートで作られた構造物を壊す。
鉄は氷のように冷たい。手は半ば麻痺する。
休憩の合間に沸かす湯を啜り、
一個あたり1合という巨大おにぎり「爆弾」をほお張る。
なんとか生きている感覚を取り戻してからまた壊す。

バラされた鉄パイプや木材を運び終え、
宿泊所に入って風呂に浸かる。これで一応息を吹き返す。
それから友人はお世話になった演習林の人のために宴を張る。
しし鍋。気合が入ってる。
15人ほど全部自分持ちでようやるわ。
それも含めて彼のなかの一つの区切りなんだろう。
遅くまで呑み続け、カラオケまで付き合っていた彼に密かに拍手。
ほんと、お疲れさん。
こちとら寝不足の上の重労働の後で、さっさと寝袋に入るのみ。
でもなんか楽しかった、貴重な体験。サンクス。


12月10日 水曜日。

昼ごろに演習林を出て再び2時間の道を行く。
昨日の雨がウソのように光が差してくる。
佐々里峠では昨晩のうちに雪になったらしい。初雪?
もう10日もすれば、そこはもう雪に閉ざされるとのこと。
広河原、花脊。静かな山間の集落。

部屋に戻ると封筒が届いている。
応募していた文学新人賞の二次選考通過の知らせ。
何かが少し上向き始めているみたい。
チャリを漕いで河原町の丸善へ。
僕の名前が掲載されたその文学雑誌と、クリシュナムルティの日記と
それから真木悠介が紹介していたカスタネダの本を買う。
あ、こういうのって「精神世界」っていうジャンルなのか。
なんかそういうのを初めて実感する。

部屋に戻り、買ってきた本にざっと目を通してから、
再び黒猫さんとの対話へ向かう。
集約した思考の連続。
僕の考えてきたこと全てを注ぎ込むように。
書く、書く、書く。
そうして気付けば朝5時。
だめだ、そろそろ寝ないと。
でも読みかけの「気流の鳴る音」が気になってしばし読む。
明日は職安へ。

〜つづく

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2003/12/12 (Fri) 走り続ける〜それはやがて集約した思考へ 2
〜つづき

12月11日 木曜日。

朝っぱらから西陣のハローワークに出頭。
ここに居る皆が仕事からあぶれているのか。
首切りにあってなのか。新しい人生を求めてなのか。
そこには言いようのない澱んだ空気が流れている。
事務的に処理されていく労働者たち。
「失業者」であるためには職を探してなきゃいけない。
規定どおり、僕は仕事の募集を検索する。
部品を、補完のための部品を買うために、紙きれを張り出す会社会社。
使いづらい検索画面から何とか翻訳の会社を一つ見つけて、
とりあえずそれで帰ってくる。

部屋へもどり、惹き付けられるように
黒猫さんのクリシュナムルティHPへ戻る。
スゴイ速さでレスが来てる。
飲み込まれてもいけないけど、
ちょっとここは乗り切らなきゃいかん。
大事なところだ。
人類の苦しみなんか背負っちゃ駄目だ。
滅亡なんて回避しようとしては駄目!
それは己の苦しみの投影だから。
それをどうやって語る?
思考はどんどん集約されていく。

そんな最中にチャットが二つ。
軽くない、軽くないよ〜。
放っておいたら苦しみはまたすぐに降って来る。
あっちもこっちも。全面的に、全力。
愛?
うん、多分そうだと思うんだけど。
あるいはそれはただ引き摺られているだけ??
信じろ。信じろ。信じろ。

何とか2本のレスを書ききる。
途中、プールへ行こうかとも思うが、
気持が入りすぎていて離れられなくなる。
それってあまりいいことじゃない?
分からん。ここは山場だ、と言う感じ?
少し身体を労わる必要がある。
早めに寝る。


12月12日 金曜日。

久々によく寝た感じ。10時間ちょっと。
思考を突き詰めているときには睡眠が必要。
最近は日々そうなんだけど。
サラリーマンをしていたときには、
時折意図的に手抜きをすることの大事さを認識していた。
今は自分が求めるものを素直に追っているゆえ、
そこの歯止めが掛けにくい。
意志により、強制的に引き剥がす必要がある。
集約した思考を繰り返しすぎると神経が参る。

ということで、今日は休息の予定だったんだけど、
結局再びBBSへ戻って行ってしまった。
今日はレスはしまい、と思いながら、
そのHPの全ての文章を改めて読み直すうちに、
この人の辿ってきた道が見えてきて、
もう他人事ではなくなってくる。
壁は静かに崩壊していく。

よっしゃ、もうやれ。
伸るか反るか。ここが勝負どころ。
書く。正直に。ぶっ飛べ。
飯も食わずにひたすら自分の言葉と格闘する。
プールもレポート添削もまたふっ飛んだ。
でもここには確かに思考の跡が残った。
全身全霊で打ち込む集約した思考の連なり。
これで伝わらなきゃ仕方ないから。

はぁ、働いた働いた。
おつかれ、一週間。
明日は休もう。
あ、明日はゴミ屋の父ちゃんと飲むんだった。
でもこの勢いなら今はヤツの懐に入り込めるかも。
ほんで一緒に泣こう。久々に。
中島みゆきでも聴いて。
それがいい。うん。
なんだか楽しくなってきたな。
ガキのお守りにならんといいが。

その前に瞑想して気持を静めておかないと。
このままじゃ心臓麻痺で死んじゃう。
はぁ。生きるって大変。

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2003/12/15 (Mon) 手渡されていくもの
高校生の実験レポートを添削している。
赤ペン先生。
ちょっと期待し過ぎていたところがあったので、
最初受け取ったときにはもうゲンナリしちゃったけど、
じっくり読み込んでいるうちに少しは親心みたいなのも出てきた。
未知のことがほとんどだろうし、
実質上、レポートの枠は青天井。
時間的にも厳しかったみたい。
できるヤツは相当書き込んでくるけど、
指示待ちになれたヤツは途方にくれてる。
まぁそういうもんなんだろうな、きっと。
ヤル気が出たならやればいい、
つまんないなら他に楽しいこと探せってね。
丁寧に「定性的」「定量的」の意味なんかを解説して、
これでこいつらどれくらい分かるのかなぁって。
おら、もっと掛かって来んかい、みたいな気持もあるけど。。。

何はともあれ。

今日は何だか自分がとても透明な感じだった。
自分の中で引っかかっていた書評をUPできたこともあるんだろう。
昼飯ついでに本を買おうと思ってフラフラ散歩。
洛北高校前の葵書店で保坂和志の本を探すが見つからず、
高野の丸山書店を目指して北大路をとぼとぼ歩く。
昨日あたりに比べると寒さが緩んだ感じか。

色々なものが抵抗感なく自分のなかに入ってくる。
こういうときは何だか訳もなく嬉しい。
人間も、人間の作ったものも、
皆考えてみりゃ「自然」なんだよな、などと他愛もないことを考える。
コンクリートを土から区別するものはなんだ?
人を鳥から区別するものは?
一緒だよ。本当は。
主観的でいいじゃん。
オレにとってはアスファルトだって立派な自然だし、
通りをゆく人は皆ひとつひとつ生命の塊だ。
そのままでいい。そのままでいい。
何も壊れちゃいない。
生きてる。

喫茶店に入って茄子入りミートソースパスタを食う。
ほんでもって食後のコーヒーをすする。
腹もおさまるとそこらでお買い物。
布団屋の前を通りかかり、思い立って毛布を買う。
ここのところ夜がすごく冷えこんでたんだ。
布団の中に寝袋持ち込もうかと思ったくらい。
おいちゃんがわざわざ色々と説明してくれた。
裏地と表地があってちゃんとした向きに使わないと暖かくないらしい。
どうもありがとう。

本屋では御望みの本は見つからなかったけど、
その作家の文庫本があったのでそれを買う。
それから電球。
あとはイズミヤに入ってクリスマスカードを買う。
五重塔をわらわらと埋めつくすちびサンタ達。
なかなか可愛らしくて良い。
バンクーバーで世話になった開発チームの人たちにでも出しておくか。
何しろあっちのことだ。皆が会社に残ってるかどうか知らんけど。
ボンヤリと去年の今頃を思い出してみたり。

散歩をすればそんなふとした思い付きが転がってる。
いいね。人生は散歩?
高野川の飛び石を渡って下宿に戻る。

。。。

何となくすぐにレポート添削をする気がしなくて、
歌を歌うことにする。
フィンガー・イースをスプレーして調弦。
弦も随分古くなってる。そろそろ変え時かも。
レパートリーがそんなにあるわけじゃないけど、
今日は最近あまり弾いてなかったのを中心に。
一人コンサート。ぱちぱちぱち。

お題目。

Feeling Groovy/S & G
Blowing In The Wind/Bob Dylan
Let It Be/The Beatles
Closer To Fine/Indigo Girls
Imagine/John Lennon
Dust In The Wind/Kansas
Teach Your Children/CSN & Y
Willin'/Little Feet

Teach Your Childrenを歌いながら、
なんともジンワリきてしまって結局涙声で歌ってた。
いい曲だ。うん。再発見。

夢って何?
教えるって何?
言葉で伝えられるものって何?
死ぬことは恐ろしいの?

伝わらないものだらけじゃんか、世の中。
お互い誤解ばっかりし合って。
そんなに焦るなよ皆。決め付けないでいい。

これを親子愛のハナシだけに還元するようじゃ駄目さ。
世代を超え、文化を超えていく共感のことなんだ。
親に、子に、自分の大切なことを伝えられぬ人に、
世界をシェアしていく感覚はわからないんだよ。
こころのどこかで信じて。あきらめないで。

そう、オレの言おうとしてることなんて、
いつも誰かがとっくに言ってるんだよな。
わざわざ言うことなんてほとんど何にもないくらい。
オレにできるのは、いいものを少しずつ繋ぎ合わせていくだけ。
拾い集めて、心を動かして、それをそっと束ねていくだけ。
こんなに整えられているんだから。
心ある道が。

手渡して、手渡されて。

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2003/12/22 (Mon) 外から内へ、内から外へ
ここ3ヵ月半というもの、
このHPにある程度形を与えようと思って、
外からの情報を最小限に抑え、
自分が創ることに重心を置いてきた。
でもここのところ何となくひと段落感があって、
ちょっと目を外に向けはじめている。

そうすると有るわ有るわ、
自分なんか及びもつかないところで、
着々と続けられている良い仕事。
あぁ、オレの世界なんて狭いなぁ、と改めて実感。
堰を切ったように本を買い込み、
あちこちのHPを覗いていく。
会社の狭い世界に居たときなんか、
日本なんてもう駄目かなぁとか思っていたけど、
甘いね〜、オレ。
スゴイ人って一杯いるもんだ。
学ぶことは山積。
それを拾い集めていくだけでも大変なことだ。

そんなこんなで最近やりたいことが多すぎて、
どれから手をつけるか迷っちゃう。
ほっとくとそれはまた「ねばならない」に変身するから、
それだけは気をつけておくこと。
やりたいことが無限に発散して行くのは大変結構だけど、
「ねばならない」ことが重くなりすぎるのは困る。

大事なのは流れを一方通行にしないこと。
自分に流れ込んでくるものを身体一杯に受け止めて、
かつその流れを再び外に流していくこと。
どんな形でもいい、とにかく表現をする。
ブラックホールのように吸い込み続けるのもよいのだけど、
どうやらそれを吐き出していく作業も、
精神衛生上必要なんじゃないか、という気がしている。
だって心の中に入ってきた様々な事々は、
ドロドロと溶け合ってやがて平衡に達してしまうから。

そう、それはまさに、
体内の増大していくエントロピーを外に捨てるという、
生物の根源的な営みなんだ。きっと。
どんな形でもいい、表現せよ。
書き、語り、歌い、描き、踊り、散歩せよ。
溜め込むのは良くない。何にしても。
便秘だ、それは。

以前、それに近いことを、
自分の「生産」と「消費」の活動のバランスとして捉えていた。
もちろん、それはここで考えてきたことと重なりあってくるんだけど、
言葉自体に孕まれてしまう、強いイメージがそこには浸入してしまう。
なんというか、矢印の向きなのかなぁ。
 「生産」→「消費」
「生産」されたものを「消費」する。
言葉として、どうも「生産」が先に来る感じなんだ。
で、消費されちゃうともうどこかへ消えちゃう、みたいな。
でもそれって、何か超越した視点というか、
社会の側から見たモノの見方だ。
あるいは、移動していく生産物(=媒体)に注目した見方というか。

それはそれでいいけど、そんなの本当に一面的な捉え方。
本来生物はそれを同時に行なっているはず。
「消費」するのはまさに「生産」するため、なんだから。
「消費」って要は原材料を買ってくること。
だから生産主体を切り口にして見れば、
 「消費」→「生産」
というのがどう考えても正しい。
エントロピー論的に言っても、どうもこっちの方が表の面だ。
「生産」なんていう、低エントロピーを創りだして行く営みは、
環境のエントロピーを増大させること=「消費」なしには起こりえない。

生物は消費するから生物なんじゃないんだ。
違う。違うね〜。
生産するから生物なんだ。
それが肉体形成だろうが、言葉を紡ぐことだろうが。
一見そうやって見えるのは、
裏にある生産に気づかないでいるから。
そんなの自動車を見て
「あれはガソリンを消費するための道具です」
って言うようなもんだぜ。
食うために表現する、というナンセンス。

罠。
それは心理的。
「生産」はせねばならないことになりやすい。
食っていくため、金を稼ぐため、世界に認められるため。
あほらし。
生産するためにそういう材料が必要なんだろ。
生産なんて喜びに決まってるジャン。

だ、か、ら。
そこら辺のバランスはちゃんと保っていようね。

外から内へ、内から外へ。
僕らは大きな流れの中に置かれている。

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2003/12/24 (Wed) 聖夜の思索
イエス・キリストが生まれたとされる晩。
僕はそれが歴史上本当はいつだったかなどに興味がない。
極端に言ってしまえば、その実在さえどうでもいい。
ここに残る確かな言葉があれば、それでいいのだから。
仮に彼がその言葉の群れの表象に過ぎないとしても、
煌きは褪せることがない。

聖夜。せめてこの日は心を鎮め、そしてそっと開き、
彼の生を見つめ、彼の言葉を受け止めたい。存在全体で。
それが僕にできること。
皆で祝う必要などないさ。
弱きものは寄り集まり、やがてまた次の虐殺がやってくる。
あぁ、それもまた受け容れよう、
それが弱き人間の定めならば。

今はただ耳を澄ませ。
そうして彼がこの地上にかつて存在したことを感じ、それを歓べ。
彼の語ったという言葉は、今も昔もこれからも、
決して廃れることがない。

。。。


「迷い出た羊」の譬え(マタイ18.10-14、ルカ15.3-7)

百匹の羊を飼う者は、一匹が迷い出たとき、
残る九十九匹を置いて、その一匹を探しに行く。

(解題1)
己に関わる人間が百人在るとき、
そのうち一人が苦しんでいるならば、
家族だろうが恋人だろうが友人だろうが、
共に幸せを分かち合う人々は放り出して、
その苦しんでいる人のことを考え、その元に走る。

(解題2)
己の携わる仕事が百在るとき、
そのうち一つが危機的状況にあるなら、
ルーチンワークだろうがなんだろうが、
上手く行っていることは放り出して、
その危機について考え、その解決に向けて動き出す。


これは一見、多愛もない一つのことに拘り続ける
強迫神経症的な振るまいに見える。だが違うのだ!
この言葉と暗黙に対に置かれるものが見えなくては。
「エゴイズム」「所有欲」「保身」「お役所主義」
そうしたものは己の地位を安泰にし、
金や物質的生活を支えてくれるかもしれない。
だがそこに売られた魂は、もう本当に満たされることはない。
「怠惰」が人をそこに導いていくのだ。
そして「怠惰」は神に背く罪の感覚ゆえに生じている。

皮肉なこと。魂を売った者はこの譬えをどう捉えると思う?
そう、彼らは自分を迷い出た羊に譬えるのさ。
心の底で分かるんだ。感じるんだ。密かな罪悪感。
自分が「良くない」ことをしてる、つまりは「迷い出た」と。
それでも救ってもらおう、っていうのはちょっと虫が良すぎなんだけど、
そこを務めて救ってくれるのがマリア様。(南無阿弥陀仏!)
でもね、自分が迷い出る一匹を探しに行かない以上、
神が自分を探しに来てはくれないことを、
少し頭の効く人間はただちに理解するね。
そんな賢い迷い羊(!)は、やがて悪魔に売り渡されてしまうのさ。

虫の良い者は分裂症となる。そういう人にはマリア様が必要。
悪魔に売られてしまった者は絶望とニヒリズムに堕ちて行く。金と力が必要。

あぁ、愚かな。
いつも神が救い給うと甘えるなかれ!
神を離れて悪魔に身売りするなかれ!
イエスが語ったこと、そうして二千年の時を超えて残ったもの、
それは僕らが持つべき倫理のことなのだ。
それはすなわち、どうすれば生を充実させられるかという知恵。

迷い出る羊一匹を探しに行くとき、そこに己の救いが見出される。

こう言うとちょっと契約めいたもの、
取引みたいな印象を受けるかもしれない。
うーん、そうとも言えるし、そうでないとも言える。
実は本来羊一匹を探しに行くのは自然なことなのだ。
何かの「ため」に一匹を追うとしたら、それはもう既に汚辱の中。
そこのところが分からないかな〜。
ただ追う。それだけなんだ。

倫理とは、人を縛り付ける縄ではない。
それは人を本来の姿に戻してくれるものだ。
「ねばならない」なんて微塵も無い。
己を解放すること。
気づくと迷い羊を追っている。

疑うなかれ。
神と取引をしようと思う者は地獄に叩き落される。
ただ信じ、ただ生きよ。一匹の羊を追って。
それが必ずあなたを救う。
この倫理性をストイックと言う者は哀れ!
そのひとはやがて喪失の苦しみを味わうだろうから。
否、既に心に煉獄を抱えてしまっているのだから。

。。。

僕は迷い出る羊を探し出し続ける。
自分の中の、そうして僕が関わる人の中の。
そんなのヒロイズムでもなんでもないんだ。
それはただ、生の喜びのため。
傲慢さが芽生えてくるようなことがあれば、
「ねばならない」が見え隠れするようならば、
ほら!自分の中の羊が迷い出た!
探しに行かなきゃ。
街路樹に、川のセセラギに、歌の響きの中に、瞑想の中に。

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2003/12/25 (Thu) 脱権力ということ 1
もともとどこか抜けているんだ。
金がらみのことなんかがスコーンと落ちやすい。
高校の実験補助のバイト代をもらうために、
月末に印鑑を押すことになってるんだけど、
毎回毎回それを忘れてしまって。
仕方ないから家から送って、と担当の人が宛名付きの封筒までくれたのに、
バイト帰りに忘年会なんかあって、もうすっかり忘れてて。。
一週間経った今朝電話をもらって、あ!と吃驚。
ごめんなさいごめんなさい。。。うっかり太郎。
明日までにとのことなので、すぐにチャリで持っていくことにした。

暖かな日差し、穏やかな陽気。
寄り道しいしい四条堀川まで。
出町のミスドに寄ってスープなど頼む。結構美味い。
おかわり自由のコーヒーを啜りながら、
これまた放っておいた授業内容報告レポートを書き上げる。
どうせ学校行くなら、理由が二つくらいないとしゃくだもんね〜。
生徒の顔を一人一人思い出しながら、授業を振り返る。
一応納得行くところまで書き終え、
寺町通〜丸太町〜烏丸〜二条〜堀川、大体いつも通りの道を辿って。

職員室は閑散としていた。
学校はもう休みに入ったのかな、バイトの僕はその辺は良く分かってない。
そういうことだから、きっと印鑑も忘れるんだよなぁ。
よくこれでサラリーマン仕事していたもんだ。
事務的なことを覚えるのは何かすごく苦痛なんだよなぁ。
自分のパーソナルな(心理的な?)出来事から完全に切り離された、
純粋に制度の方からやってくる束縛。そいつが嫌い。
これって言い訳か。はは。

ゆっくり、ゆっくりペダルを漕いで北上。
御池から小川通を上がっていく。
町屋の格子窓なんかをボンヤリ眺めながら。何度眺めても飽きない。
決まりきったパターンはあるのだけれど、やはり一軒一軒はオリジナル。
ふと実際自分が家を建てるならどうか、って考える。
うーん、分からん。
見ていて良いっていうのと住んで良いっていうのは違うのかしら?
いや、そんなことはないはず。
だけど。町屋は京都のこんな小路にあるからこそ、それがいいんだ。
何処に何時家を建てるかなしに、どんな家がいいか、なんてナンセンス。

ふと。いかにも社宅か役所という感じの建物と汚れた白い塀が目に入る。
下長者町で東に折れるてみるとそれが農林水産庁の建物だったことが分かる。
分かりやすい。安定感と醜悪さが共存する雰囲気が辺りに漂っている。

府庁の裏手から今度は新町通を上へ。
今出川を渡り同志社の横を抜けていくと、寺之内のところで道が切れる。
そこから細めの路地に入っていって、鞍馬口まで北上。
そうして今度は鞍馬口をつっと東に走る。
烏丸を渡ると関ブリの浪人生がフラフラしてる。
いかにもって感じ。ちょっと斜に構えて、虚勢を張って徒党を組んで。
そういやオレも昔はあんなだったかな。
でも実際のところ今も全然変わってねぇ〜な、と思って笑う。
少なくとも外から見たら似たようなもんだろ。
若く見えるかどうかは知らんけど。

出雲路橋を渡ろうとしたら、賀茂街道で警察がネズミ捕りをしてた。
橋のたもとに5〜6人。暇なんだな〜この人たち。のんびり談笑してる。
平和だ。平和な一日。橋の北側の川面にはユリカモメ、南には鴨の群れ。

ぼんやりと「権力」について考える。
そういや最近あまり考えたことがなかったなぁ。
5年くらい前は、あらゆる権力に対してNOみたいなことを考えてた。
国家に、会社に、業界に、サークルに、思想に、金に、特定の誰かに、
身を委ねて無意識的になっていく醜悪さ。そこに吐き気を催しながら。
「バカの壁」の内に篭る愚かさ。
その必然的な帰結として世界中で起こり続ける戦争。
物理的に人を傷つけないからって、それが戦争じゃないなんてナンセンス。
そう、戦争は今も日々そこら中で起こっているのさ。
感情のこじれ、もつれ。それは潜在的な暴力。
皆が互いの「価値観」を認め合いましょう、なんて言う奴はただの馬鹿。
己が変容していくことを理解できず、固定したものに安住するだけ。
ほとんどのケースで「価値観」なる言葉は対話拒否しか意味していない。
民主主義という「バカの壁」万歳システム。
それはそれでいいさ。
己の愚かさと固執性を前提として理解しているなら。
それを分からずによっぽどいい気で「価値観」などという傲慢さと間抜けさ。
は。お笑い種。

そんなところを辿ってはきたけれど、
最近の僕は何だかちょっと肩の力が抜けてるみたい。

(つづく)

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2003/12/25 (Thu) 脱権力ということ 2
(つづき)

いかなる「権力」をも排除するなんて不可能なんじゃないか?
というか、そんな風に闘う限りそれが新たな権力を産むだけじゃないか?
僕らはとても限定された、ちっぽけな生き物なんじゃないか?
それを受け容れることが、本当の脱権力なんじゃないのか?
そういう思想そのものの内にさえ、不確定性を残しながら、ね。
小乗仏教に対する大乗仏教、律法主義に対するキリストの教えのように。
徹底抗戦しない。ただニヤニヤ笑い続ける。
そんなことを言うのは僕の頭脳が老化しているせい?

ちょっと前に買った「現代思想」のフーコーの特集、
あれを読んでて何とも言えぬ違和感を感じたんだよな〜。
彼は全ての権力を徹底的に解体させていく。如何なる抑圧とも闘っていく。
知性が達しうるギリギリの所での綱渡り。まさに知のサーカス。
それは凄い、本当に凄いとは思うんだけど、
やっぱり反権力のカテゴリーに堕ちてるんじゃないかしら。
国家や共同体や貨幣経済、そうした権力形態を解体するために、
知という別の次元の権力構造を持ち込んでいるだけで。
知を崇高なものとするスタンスを思想として選択するとき、
確かにそれは僕らにとって相対的にマシな暮らしをもたらすかもしれぬ。
哲人政治。プラトンもそこへ行ったな。
でもそこには知の序列構造が発生する。そして官僚機構化。
そのヒエラルキーは再びルサンチマンを産み出さざるを得ないさ。
って言うか、そもそもある種のルサンチマンが異なる権力構造を求めるだけ。
フーコーの生き様には共感するが、
彼の語る言葉を思想として確立しようなどと、
愚かな真似などせぬが良い。読み込め、されど取り込まれるな。

特集のなかでは多くの哲学者(哲学研究者)が寄ってたかって、
その知のサーカスを如何に真似できるか、
そんな多愛もないゲームを展開しているように感じられた。
偶像フーコーは、デーンと中心に鎮座ましまして。
あなたの実感はどこへ?あなたの日常がそこにあるのか?
所詮遊びなのかな?
吸収しようとすること、真似しようとすることばかり先に来たら、
そりゃもう糞だよ、糞。
ばっちいよ。

そうそう、物理の勉強をしていたときも同じことにぶつかった。
論理をきっちりと追っていくことは確かにシンドイけど、
それはちょっと違うんだ。
そこに介在する権力構造が僕を苦しくさせる。
マニアックな知恵を競うだけの隠微な楽しみに堕した世界。

結果的に僕はエントロピーの定義を一生懸命考えていた、
論理を犠牲することを拒絶し続けて。
もうサーカス感たっぷりで。
でも僕には理由があったんだ。見失うことができない大切なことが。
エントロピーが分からなきゃ、生命のことなんてわかりゃしない。
僕が知りたかったのは、この日常の感覚を説明できるシャープな言葉だった。
権力なんかじゃない。だのにそいつは密かに纏わりついて、
多くの人が論理の連なりを見るだけで、何故か攻撃されてると受け取るんだ。
そんな心理がアカデミックソサイエティの権力を支えてる。

な〜んてこんなことをいうのは、
「ほぼ日」の吉本隆明の対談を読んだからか。
そうそう、フーコーがああいうスタイルを取ったのも、
フランスの輸出品が思想ぐらいだから?
真摯な営みに共感はするけれど、
そこで語られた言葉は一つのファッションなんだ、所詮は。
あるいは人生を賭した遊び。

あ〜あ。
無駄口を叩きながらネズミ捕りをしてる警官達をみていたら、
そんな思考の種がそっと植えつけられた。
この人達に腹を立ててもしょうがね〜な、と思う。
それは会社に身を委ねてしまっている人たちに感じた想いとも一緒。
それに苛立ってどうこう言う気はないよ、今の僕には。
巻き取られそうになったら塵を払って去るだけ。
「バカの壁」なんて批判すんじゃね〜よ。
そんなことした途端に権力が生まれるから。
空しくなるから止めときな。バ〜カ。

僕らは皆生きている、ってね。
皆愚かで、それでいいじゃない?
ゆっくりのんびり行けばいい。
滅びる時は滅びるさ、皆。
自分だけ生き残ろうとしたって無駄だよ。
そこんとこだけちゃんと腹括れれば、
あとはもう何だっていい。

自分のペースで生きていれば、
踏ん張りどころは神さまが教えてくれるものさ。
生きてる時間に無駄な時間はない。ちゃんと味わって。
権力を脱する、というのは、
そういう感覚のことなんじゃないでしょうかね。
さてさて。

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2003/12/26 (Fri) この道 1
考え続けてる。
いつだって。ひたすら。
それが今の僕の仕事。
でも一体僕は何を考えているんだろう?
僕は何処へ行こうとしているんだろう?
大丈夫か?見失っていないか?

家賃と帰省旅費を用意するため、
百万遍のみずほに金を下ろしにいってきた。
残高を見る。さすがにそろそろヤバイ。
予定通りではあるけれど。
年明けしばらくしたら仕事を探そう。
当面は英語で食っていくつもり。翻訳者か教員か。

松屋でさして美味くもないカルビ定食を腹に突っ込み、
川端通からチャリでそのまま鴨川べりに降りて土手に腰を下ろす。
雨はもうすっかり止み、夕暮れ時の陽が照ったり隠れたり。
ふと自問する。
僕は何故サラリーマン暮らしをしていては駄目だと思ったのか?
幾度も繰り返された問い。
それは僕の倫理性ゆえ。
でもその倫理って一体何?

二つの指向性が矛盾しあいながら僕の内にある。
それが僕を導いていく。
それは必死でディテールの詰まった仕事をする感覚と、
あるがままでいい、なるようになればいいという感覚。
確信を与えてくれる知を求める心と、
日常の出来事の全てに生を見出す心。
自力で秩序を形成しようとする運動と、
全体の秩序の中に身を委ねていく運動。
小乗仏教的な超越と
大乗仏教的な帰依。
タナトスの仮面を被ったエロースと、
エロースの仮面を被ったタナトス。

そう、それは一見すると矛盾しているのだ。
ディテールを詰める人はそのままでいい、なんていうのは受け付けないし、
もうそのままでいいよ、という人はディテールなんか詰めやしない。
人は瞬間瞬間どちらかのモードに在る。
でもそのどっちかだけを選んでも駄目になっていくのは、
ちゃんと目を見開いて生きていれば経験から明らかなはずだ。

ディテールを詰めることに専念する強迫神経症患者(鬱)は自己を破壊する。
あるがままでいいと放り投げる分裂症患者(躁)は周囲環境を破壊する。
どのみち最終的には廻り廻って共倒れになる。

ほんのちょっと高度な思考が出来る人は、
その両極の間で如何にバランスを保つかを考えている。
どちらかを捨てるのではなく、その両方を生の原動力に変えて。
均衡を取ることが倫理のコアにあるもの。

じゃあどこにバランスを取るの?って聞くと、
そこに言葉でバシッと答えを返せる人には滅多に出会えるもんじゃない。
行動の方は結構いい感じの人によく出会うけど。
そこはもう、個々の経験の領域?
でもその経験って何だよ、一体?
つけ入るものは数限りない。(権力はここに再び忍び込んでいく!)
そりゃ確かに「経験」なんだろうけど、
そこを自分なりにしっかり捉えようとしない人は老化が進行中と思うべし。
実際に人に説明するかどうかは置いておくとしても。
それはもう「あるがまま」に呑みこまれているんだ。
すなわち生の生たる根拠を放棄し、
死の静寂に片足を突っ込んでいるのじゃないか?
それでいいならいいさ。人生が実質上そこで終わってるというだけのこと。
あなたの一生、満足行くものでしたか?
そこで満足だと言える人もまた、滅多にいないんだけど。

僕はその均衡点を掴まえようと足掻いているんだと思う。
もちろん最終的にそれは「感覚」になるのだろうけど、
それを言葉に出来ないようじゃ、それはまだまだ甘いということ。
言葉によって自分自身を説得しようとしているんだ。
果たして均衡の中心はあるのか?
どうしてそこが均衡点になりうるのか?
その心理的、生物的、物理的メカニズムを知りたい。
それが説明できないくらいじゃ、きっとマヤカシだ。
僕は「本物」を求めている。

直観的なレベルでは、僕は均衡点は存在するものだと思っている。
ただし、それは静的なものではなくて、ダイナミックな運動の中心のはず。
振り子の釣り合い点のように、一瞬で通り過ぎるものかもしれない。
いいんだ、それが何故そこにあるかさえ納得できれば。
僕はそれを知ったところで、相も変わらず日常を生きるだろう。
ただし、より手堅い確信とともに。

〜つづく

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2003/12/26 (Fri) この道 2
〜つづき

。。。

再び整理しよう。
僕は倫理性を追求している。
倫理の根底に流れるものを理解するために、
生の一見矛盾し合うダイナミズムを切り口にして捉える。
このダイナミズムは、現在までに僕が得た様々な知の体系から類推して、
矛盾というよりも不可分な相補性の関係にあるだろうと予測している。
その証明を行うこと。(というか自分が本当に納得できればそれでよし。)
キーワードは「生命による秩序形成」「個と全の相補性」。

僕の道具立てメモ。生命の原理に関して正確に理解し整理すべきこと。

「下」からのアプローチ 〜 秩序形成の意味/個の全体による包括関係
 ・複雑系理論〜散逸構造〜エントロピーとの厳密な対応関係の理解
 ・量子揺らぎと散逸構造の相関
 ・時間発展=エントロピー増大という宇宙の構造把握
 ・情報エントロピーと物理エントロピーの整合性

「上」から
 ・ガイア理論/部品としての生物の理解、全体との相関関係
 ・「超越」「解脱」のメカニズムに関する考察
 ・共時性のパターン理解/神話類型をさらに遡れるか?

「下」からの論理と「上」からの論理の整合性

実践に際して必要となる、諸現象の理解のために整理すべきこと
 ・無意識の構造理解/欲望類型およびそのメカニズム分析
 ・資本と貨幣の運動メカニズム〜生物の秩序形成との接続
 ・権力分析/柄谷の言う4つの交換メカニズムの分析

他者のために、あるいは僕の断片のために
 ・現代人の症例分析
 ・ルサンチマン/ニヒリズムからの解放の道

具体的な実践行動規範の確立
 ・今を元気に生き続けるために必要な知恵を拾い集める
 ・その知恵に対して自分なりの根拠付けをする
 ・生活の中で大事なことは何?均衡はどうやって取ったらいい?

果たして何処までできるだろう?
道半ばで倒れる可能性は充分にある。僕がいくつあっても足らない。
うん。でもだからこそのラフスケッチなんだ。まずは飛べ、そして見渡せ。
テクストの読み込みは厳密に。表現は詩になったっていいから。
この営みは既にある知を繋ぎ合わせることに価値があるはず。
分析じゃない。統合すること。
疎外された知を人間のもと奪還するための足掻き。

ここでリストアップした分野の専門家で
僕に分かりやすく説明できる人がいるなら嬉しいんだけどなぁ。
あんまりそういうべったり「専門家」な友達がいないのは難点だ。
まぁそれも必然といえば必然なんだけど。。。

。。。

こんな思考に展開していくような素材を
河原でなんとなくこねくり回していたんだ。
夕暮れ時が近づき、何十羽のユリカモメがざっと飛び立つ。
ゆるやかな螺旋を描きながら、湧き立つように。
そうしてやがて南へ、川下の方へ消えていった。
烏もギャーギャー泣きながらポツポツと飛び立っていく。
思考がちょっと煮詰ってきたかな、などと思っているところに、
しばらく雲に隠れていた太陽がサァーっと光を差してきた。
世界は僕に何を語りかけているんだろうか?
言葉にトラップされた僕の魂は、
その声をきちんと理解することができない。
それは悲しむべきこと。心をちゃんと洗い続けなきゃ。

色々大げさなことを言ってても、
知の断片はそこら中に沢山転がっているんだから。充分確からしいものが。
河原で鳥を見ること、掃除をすること、歌を歌うこと、瞑想すること。
嘘をつかないこと、素直でいること。
いつもそんなことばかり、おきまりのようだけど、
それは毎回静かに確実に僕を洗ってくれるんだ。
そうして再び生の濁流へと身を任せていく僕を守ってくれる。
思考に堕すな。喜びとして思考せよ。
生活なんて何とかなるもんだ。来年も考え続けていればいい。

そう。いつだって懲りずに。
「ゆっくり」って自分に言い聞かせて。

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