日々の雑感

はじめに
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2003年 9月
(2003年8月以前の日記)
Old Diaries
2003年9月

9/8 始めてみた
9/9 虚無と共存する夢
9/11 潮岬の嵐
9/13 大事なこと
9/15 倫理はどこへ消えた?(その1)
9/15 倫理はどこへ消えた?(その2)
9/16 小さなこと
9/22 秋の空
9/25 人と共に生きるということ
9/28 金木犀




2003/9/8 (Mon) 始めてみた
単純化したい。
自分の思考を。
自分の心を。
自分の行動を。
世界に素直に向い合えるようになりたい。

捻くれることを止めて、良いものは良いと言う。
そして良いと思えるものを増やすために生きる。

世界は広い。
自分が何かスゴイことを発見したとか、
とてつもないことをやりとげた、などと感動に浸っても、
ほとんど全てのことはどこかで誰かが体験してる。
いいじゃないか、自分がやれることなんて本当に限られているさ。
その事実に打ちのめされてしまうようなら、まだまだ自分は甘い。
良いものは良い。大事なものは大事。自分の喜びは何にも代えがたい。
まして、喜びの共有はさらに喜びを増すものじゃない?

現代資本主義社会のなかにあっては、いつも人との差別化を
はからなければならないという脅迫観念に追われがちだ。
確かに前人未踏の地を踏む人達はすごいと思う。
だけどそれってあくまで結果じゃないのか?
最初から人のやっていないことをやろうってのは、
何だかちっぽけな虚栄心という気がする。
他者との比較によって初めて決まる相対的なものではなく、
自分の中の絶対的な価値を追い求めたい。
頼れるコンパスは自分の感性。
不安定ではあるけれど、磨けば精度は上がる。

個はどこまでも成長し、前進し、拡大し続けることを希求する。
それが生きるエネルギーを与え、死の不安を超えさせる。
フロンティアをどこにとるか、それが問題だ。


個、それは幻想か?
自分という存在は、細胞という単独で完全性を帯びた生命体や、
血液や空気ような無機質なものまでが寄せ集まって形成されている。
そのどの部分にも自分はいないし、そのどの部分にも自分はいる。
クローン技術によって証明されたように、一つの細胞は
自分に成り代わるポテンシャルを持つ。
言葉を通じて考える「私」なるものは、
その誕生の瞬間から人間の文化の寄せ集めとしてしか成立し得ない。
その領域はどうしようもなく不確定だ。
私はここに在る、さりとて。。。

自分のように個と見なされる存在が寄せ集まって社会が形成され、
また様々な種は生態系を形成する。それは一つの個ではないか?
要は観測スケールの問題だろう?
「私」を超える、「私」を含む、個がそこにある。
それは私にとっては「全」と呼ぶべきものなのだけれど。

人の体を蝕む癌のように、増殖だけを目指す個は遠からず滅ぶ。
かと言って「全」を完全に捉えられる「個」などは無さそうだ。
中途半端に国家ごときの相対的「全」に身をゆだねる無かれ。
自我を押さえ込んだところで、そこに答えは無い。

全き個たりうること。それが願い。
私は私を探す。
そしてそれはきっと、
とても単純なはず。

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2003/9/9 (Tue) 虚無と共存する夢
自分に夢があるかと問われるとどうにも困る。
判らない。多分具体的には無いのだと思う。
かと言って自分が何も希望を持つことなく会社を辞めたかといえば
そうではないと思う。明るいものを求めた。そしてその存在を信じた。

でもそれは壊れやすい。

心から笑っていたい。
「いつでも」と言わずとも、少しでも多くの日々そうありたい。
虚無をしなやかに受け止め、するりと生き抜きたい。
偉くなることで人に認めてもらうより、人と一緒に喜んでいたい。
力を握るより、今に満足し切りたい。
そんなものは夢とは言わないだろうか?

そんな抽象的なことばかり言っているから鬱がやって来るのさ、きっと。
でもね、
虚無を真っ直ぐ受け止め、飲み込まれずに生きていくためには、
やはり、
夢が必要ではある。
それが時折逆噴射して絶望を味わわせるものだとしても、
恐れずに夢を見続けていいじゃないか。

思考停止じゃない、むしろ逆。
素直に夢を語ればいい。
ただ丁寧に。直接に。


青春18切符があと2枚残っている。
9/10までに使わないと期限切れになるので、
和歌山の南端まで行ってみようと思う。
京都からは5〜6時間くらいだ。
どうせ今はふらふらすることが商売みたいなものだし。

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2003/9/11 (Thu) 潮岬の嵐
潮岬は雨にくすんでいた。
未明の雷を伴った嵐の余韻をまだ残していた。
常緑の木々がびっしりと生い茂り、
その足元の泥濘を小さな赤い蟹が走り抜ける。
そうしてそそくさと石垣の隙間に隠れる様子に思わず一人笑った。

日頃せぬ早起きをすると朝が長い。
灯台を訪れたが、まだ営業時間は1時間も先だった。
誰も居なかった。神社の境内を一人彷徨ってみた。
静かに濡れる神域は人の手を逃れていた。
初夏に歩いたコーンウォルの荒地のことを考え、
同じ岬でもずいぶん景色が違うことをふと思った。
日本の風土は豊かだ。こんなにも豊かだ。
山は険しくそのまま海に落ちていくようだけれど、
そのギリギリのところまで濃い緑が覆っている。
ここには生命がある。人間など圧倒して蔓延るそれが。
ヨーロッパなど旅しなくても良かったのかもしれない。
バンクーバーになど行かなくても良かったのかもしれない。
俺は一体何をしてるんだろう?

串本の駅までとぼとぼとたっぷり1時間半かけて歩いた。
岬から離れ、集落の中を歩いた。田舎みち。
なんだか懐かしかった。小田原の風景が頭を過った。
家のつくりや塀と生垣の構えを見て、この地域の特色を
言い当てようと思ったけど全く無駄だった。すぐ諦めた。
立派な茄子がぶら下がっていた。
買い物に出るらしい足元の怪しい老婆に、
別の年配の女性が優しく微笑んで声を掛けていた。

何者かと和解した感覚があった。
集落を抜け、小さな半島が終わりに近づき、
高台からちっぽけな串本の町並が見えてきたとき、
何故か思わず嗚咽を抑えられなくなった。
いや、むしろ泣きたかったんだ。きっと。ずっと。
気持が楽になり、歌を口ずさんだ。
Indigo Girlsとそれからはっぴいえんど。
楽しくなってきた。
生きてる。

海をしばし眺めてから無量寺の美術館に寄ってみた。
中国へ行った頃から水墨画がかなり気に入ってる。
油彩もいいが、ためらい無く一発勝負をしている感じが
伝わってくるのが何ともたまらない。
筆のタッチは細かく柔らかいかと思えば、突如奔放にもなる。
長沢芦雪のユーモラスな構図と素軽い筆の運びを眺めて
少し幸福な気分になって寺を出た。
いつしか雨は本降りになっていたが、傘もなかったので
濡れるに任せながら歩いていた。
軽トラのおじさんが声を掛けて駅まで送ってくれた。
俺のなかで何かが正常に機能し始めてる。
これでいい、これでいい。

電車の中では行きしなから「嵐が丘」を読み続けていた。
小説の展開と昨晩の激しい嵐が奇妙に心の中で重なっていた。
ユースホステルのたった一人の客になりながら、
暗い岬をぼんやりと眺めながら聞いた雷鳴と。
キャサリンの最期、ヒースクリフの最期を思う。
多分、潮岬ではあんな風に煮詰まった恋をすることはない。

そう。
日本の土着仏教系の甘ったれた虚無思想は好きではないけれど、
それはきっとこの風土、自然と密着しているんだ。
俺を今の状況に追いやった奴らを見返してやる、
などという復讐の念めいたものは、この地には馴染まないのさ。
そして俺の中に根を張る文化にも。
どこまでも許し続け、そうして甘え続ける文化を
そう簡単に根絶やしにはできやしない。
とりあえず俺は闘わない。
いいじゃないか。
そんなことより、そこらを歩いて歌でも口ずさもう。

会社を辞めるに至るほど追い詰まった俺の心は何だったか?
それは虚栄心か?社会への愛か?力への意志か?
神と自分を倒錯するごとき愚かな真似をするのは何故か?
試験に落ちたくらいで凹むのもアホらしいじゃないか?
認めてくれる人がいないくらいで呻くな。

神、神といい続けるものほど神から遠い。
神は実際そこら中に顕在している。
誰の占有物でもない。
心から笑っている人の中には神様が在る。

「個」にしがみ付く必要がどこにある?
心を開け。正しいものを信じろ。
大きな声で、相手の目を見て、きちんと話せ。
素直に正直にあれ。

嵐を愛する倒錯者の気持が判らぬ人々を
文化的に衰退しているなどと、どうして断言できる?

のんびり行け。

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2003/9/13 (Sat) 大事なこと
9月も半ばになってきたが、相変わらず京都はむし暑い。
旅から帰ってきてからまた少し気合が抜け気味だ。
やることは結構あるのに面倒臭い、先回しにしよう、
という気持に抗しきれない弱さがある。
そう、引き篭もりはどうも時間感覚がマヒしていけない。

このままズルズルしてても仕方ないと思い、基本に返ることにする。
部屋の掃除をし、散歩し、ギターを弾き、瞑想し、泳ぎに出かける。
今の自分にとって大事だと思えること、
それはそういったシンプルなことの積み重ねだ。
自分の心身と周囲環境を整えるように努力すること。
エントロピーを下げるという生物の根源的な営みに忠実になること。
丁寧に、ゆっくりと、納得行くまで。

怠け者になってる時はどうしても気持がネガティブな方へ行きやすい。
逆もまたしかり。ネガティブな時は怠ける。
もともとが相当の怠け者だけど、不安定な状況に身を置いているだけに
今は余計にその負のフィードバックループに嵌りやすい。
そこから脱するためにはちょっとした行動が結局有効になる。
何が一番効くかはその時々で違うので、色々試してみるしかない。
完全な解決法など多分ないのだと思う。
でも最近は少しずつ、本当に少しずつだけど、
回復の技を磨けてきたような気がする。

行き詰ったときにとりあえず掃除や整理整頓を始めることは、
考えることを放棄する訳では全然ない。
「悩む」ことを放棄して、「考える」方に向うための知恵なんだ。
スッと狐が落ちた時には思考が冴える。
くよくよと過去のことを考えるより、先のことを具体的に考え始める。
思考は言葉だけでするものではない。
身体性とも密接に関係しながら、無意識レベルでも思考している。
だからきっとそのバランスを保つことが大切なんだと思う。

瞑想をしていると結構面白いことが起こる。
強制反復的に思い出すような自分の過去(トラウマ)なんて
客観性や正確さを欠いたものが多い。(少なくとも僕の場合は。)
時々集中的に過去のことを思い出すようにすると、
下らぬことで堂々巡りをすることが減る。
心を落ち着けて現実的に見ることで
過去を過去に静かに沈めていくということ。
それは呪いを解くようなものなのかな。
反って今を生ききる感覚が生まれてくる。



生きることとは今に賭けること以外には存在しない。
自分が一番冷静に考えてるときにはそう確信できる。
つまり今を元気に生きることが最も大事なこと。
全ての生産物はあくまでその結果として現れてくるに過ぎない。
それ故プロセスは結果よりも優先されるべきだと考えている。

その時その時、一日一日を納得し尽すこと。
何かのために日々を犠牲にするのは望ましくない。
あくまで「目的」に向って一歩一歩進んでいる、それを納得するんだ。
それが成功しようと、失敗しようと、生きた時間は無駄ではない。

とはいえ結果が無きゃ虚しいだけだと思ってしまうこともある。
それは生きる気力が低下しているとき。
自分が満足に生きていないとき。
ルサンチマンに心を食い荒らされているとき。
人も自分も信じて認めることができないでいるとき。
でもね、そんな気持でいる限り、結果を得ても虚しさは変わらない。
ただ麻薬的に結果を求め続けるだけになっちゃう。
それがまさに資本主義の自己運動とも言えるんだろうけど。

でも僕らはどうせ死ぬのだ。
仮に世界に名を残したとしても、人類だって遠からず滅びる。
地球さえも永久なものではない。
それを忘れているなら、ちょっとうっかり者かな。
認めるのを非常に嫌がる人が結構多い気がするけど。
それは僕らの置かれた現実。
現実を否定して語られるストーリーに説得力は無い。

滅びとは闇雲に闘うもんじゃない。(つまり安易に否定するな、と。)
いや、それを知った上で闘うんだ、と言うのなら、
それはとても人間的、生物的で正しいことだと思う。
西欧系の文化にはその美学が強い気がする。
日本ではむしろ滅びを飲み込んじゃう傾向があるのに対して。
キリスト教か仏教か、それももちろん関係してるんだろう。
「個」を生きるか、「全」あるいは「空」を生きるか。
虚無にだけは行っちゃおしまいさ。
ニヒリズムは所詮甘えなんだから。

ともあれ確信犯なら何だって正しい。

宇宙のエントロピーは増え続ける。
でも生物は自分のエントロピーを下げようとし続ける。
やがては滅ぶにしても、闘えるところまで闘い続ける宿命。
その不条理を受容すること。
泣き言言わない。
日々のプロセス自体を喜びに変えよう。

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2003/9/15 (Mon) 倫理はどこへ消えた? (その1)
わずか一ヶ月も立たない前、京都に移ってきた当初は
大学へ戻って博士課程に入ろうと思っていた。
「自分がどうすれば元気に生きていけるか」
最終的にはこの問いに答えを出していくこと、
研究の目的はそれ以外に在り得なかった。
それはとても遠いゴールではあったけれど、
この問いを放棄した研究など全てが無意味に見えた。
緻密に、丁寧に、論理を放棄することなく、
自分が幸福に生きるための方法論を考えようと思った。
物理学、経済学、人類学、哲学、文学、
どんな方法論を用いようがベクトルは同じところへ向かう、
そんな風に考えていた。

だが、それは戯言としか見なされないのが現実だったようだ。
そんな風に考える僕は、今の日本のアカデミックな世界においては
狂人だというふうに見做されてしまうのかもしれない。
或いはオカルト系の気持悪い人とか。
そんなのは学問と呼べないと感じるのか?
それともそんな大言壮語を吐いても、どうせできないだろ、
っていうシニカルな反応なのか?
こっちは大真面目に、夢を描いて頑張って見ましょうよ、
と笑みを浮かべて手を繋ごうとしに行くのに、
当惑と冷笑を浮かべながら、それを踏み潰そうとするのは何故?

オレハオカシイ?
大学なんてどうやったら人が幸せになれるかを
大真面目に考える場じゃないのか?
その為に宇宙の原理を考えたり、
新しい技術を産み出したり、
経済発展の在り方を考えたり、
過去の哲学者の文献を読み漁ったり、
そんなことをしてるんじゃないのか?
マジデ。

まあいいさ。そんなことはもう。
大学に戻るということは僕にとって本当に大事なことではないはずだから。
僕の身の振り方に興味を持ってくれている人達に対して、
今後の予定として伝えていたことは駄目になりそうです、
と報告しなければならない手間がかかるだけのこと。
「穢れ」のように扱われながら、そこら中でバトルを展開するよりは、
レストランでウェーターでもしている方が
よっぽど元気になれる可能性は高く見えるし。
だって元気でいることが何より大切なことなんだから。

いいじゃない。市井の哲学者になろう。
どこに居たって、何をしていたって、考える続けることはできる。

にしても、だ。
これからどうやって食っていくか、ということが
短期スパンの問題として切実になってきた。
何を生業としていくか。
もしも自分の考えてきたことが皆にとって価値があるのであれば、
それを社会に還元することで生きる糧を得たい。
僕の言葉が、思想が、単なるルサンチマンの呻きでなく、
生の本質に近づき、それに価値を与えるものならば、
きっと誰かが拾ってくれるはずだと願うのだけど。

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2003/9/15 (Mon) 倫理はどこへ消えた?(その2)
そんなことで、最近ともかく文章を書いている。
今日は丸一日雑誌に投稿する予定の文章を書いていた。
「倫理の行方」というタイトルをつけた。
遠からずホームページにもUPするつもりでいるが、
何故会社を辞めたのか、改めて自分に問い直す作業として進めている。

難しい。

開発の現場にあったとき、僕はストイックなほど仕事に没頭した。
より良いものを創りだそうと足掻き続けた。
目の前のモノの世界に留まらず、
より良いビジネスケース、より良いワークフローを作ろうとした。
そして何よりもより良い共同体を目指した。
仕事とはそんな全てが有機的に繋がりあって初めて機能するから。

業績を上げ、自分の身を安泰にしようとすることの他は
何も大したことを考えぬようなつまらぬ上司を見下し、
自分はせめて倫理的であり続けようとした。
それは自分の会社に限定された問題ではなかった。
今の社会の中から消失していきつつある倫理の問題として捉えていた。
つまりは現代資本主義の自己展開運動に真っ向から拮抗しようとしていた。

実際そんな足掻きはそれなりには実を結び、
少なくとも良いものを作ることに関しては一応成功した。
ともに働いた仲間達との信頼関係は自分にとって大切なものになった。
だが代償は大きかった。魂は擦り減った。
背負いすぎた。僕には過剰だった。

倫理とは本来、人を幸福にするための知恵の凝縮体であるハズ。
僕の持っていた倫理の感覚はおかしかったんだろうか?
何故あんなに苦しいところへ、
虚無に喰いちぎられそうなところへ、追い込まれてしまったのか?

でも、少なくともその倫理性故に会社を辞めたことも間違いないのだ。
それは「正しい」選択だったと思う。
この倫理は、「ゆっくり」「自分のペースで」というような、
今の自分にとってとても大切と思えることをも包括し、
更なる広がりを見据えているのだから。

苦しくなると判らなくなるときもある。
僕の倫理は間違っていたのだ、崩れ去ったのだ、
今ではすっかり身を持ち崩してしまって…
なんていう具合に。

違うんだ、いらん結論など出すな。
それは所詮、冷笑するシニカルな人々へのお追従でしかない。
それはまるで、ソ連の崩壊をみて「共産主義」思想は
所詮戯言だった、と言うようなものじゃないか。
マルクスの思想は、それによって「商品価値」を下げたかもしれぬが、
そこにある豊かな世界は何ら変わった訳ではない。

前に向って開いていろ。
可能性は現在にあり続ける。
僕は僕をしっかり捉まえていなければ。
生身の生に賭けよ。

何となく。。。
「チーズはどこへ消えた」とそのパクリの「バターはどこへ溶けた」
という本が2年ほど前に良く売れた。
ふとその2冊の本のことを思い出した。
「倫理」という言葉を振り回すことはチーズ臭く、
その時その時を「元気」に生きることはバター臭い感じがする。
安易に二元論に持ち込んでも仕方がないが、
その背景にはキリスト教的「倫理」と仏教的「空」の
ギャップが垣間見えるように思えるのだ。
でも、それはきっと矛盾ではなく、
きちんと詰めていけば、どこかで融合されていくものなんじゃないかな?

そう願う。

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2003/9/16 (Tue) 小さなこと
窓を開け。
心の窓。

曇りガラスに閉ざされた部屋はどうも辛気臭い。
全く何でそんなところにすぐ引き篭もっちまうんだろう。
嫌んなっちまう。

究極の幸せがどこかにあって、
自分はそれから阻害されていると感じる、
心の中に少しでもそんな兆しが現れたら、
それは幸せ不足の証拠。
補給しなさい、生きるエネルギーを。
飢えを満たすように、渇きを満たすように。
小さな幸福はそこら中に転がってる。
ゆっくりそれを拾い集めなさい。

外に出よう。
道端の雑草に気付くよう、
余所見をしながらゆっくり歩こう。

繰り返し、繰り返し、
何度も繰り返したっていいじゃない。
本当のことを言えば、
一度たりとも同じ日はない。
それに気づくこと。

上手く行かなきゃいつでもやり直せばいいさ。

それでいいじゃないか。

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2003/9/22 (Mon) 秋の空
京都では今回の台風の影響はほとんどなかったが、
昨日までは雨がパラつく天気だった。
今日は朝から一転して快晴。
気分が良くなったので思わずチャリを飛ばして公園に行く。
ベンチに寝転んで空を見る。
清清しい。
秋の空は高く高く見える。
薄い雲が強い風に引きちぎられてる。

取り組んでいた文章を今日でようやく脱稿した。
友人からコメントをもらえれば若干修正をかけるだろうが、
自分としてはやれることはやったという感じ。
もっと早く終わらせるつもりだったのだけど、
今回選んだテーマが、自分がこれからどう生きるか、
ということを根底から問うものだったので、
書いては悩み、悩んでは書き、という繰り返しで
なかなか消耗の激しい時間だった。
全然短い文章なのにね。

昨日はあと少しで終わりだというところで、
自分が書いてきたことが全て間違っているように思えて、
絶望的な気持になってしまった。
ふと気付いたのは、外に対する怒りを抑えてしまうことにより、
自分の生きるためのエネルギーを失ったという事実。
非難じゃなくて批判だと?そんなものはあるうるのか?
倫理、倫理って、パワーを失わせるものに何か意味が在るのか?
要するにオレは感情を押さえ込んでしまうから駄目なんだ、
何で素直になれないんだろう?
それが結局傲慢さに結びついているじゃあないか。
判らない、判らない、判らない。。。

あまりの虚しさに夜の街をチャリで走り回った。
頭がどうしようもなく痛かった。
雨は止んでいたけど、夜の空気は既に冷たかった。
走って走ってグルグル走って、
気付いたら夜の公園に向っていた。
暗く、静かなところに行きたかった。
そしてテニスコート脇のスペースに自転車を止めた。

突然その場所に纏わる自分の記憶が蘇った。
別にそれを目指していたつもりは欠片もなかったのに。

5年前、金木犀の香る季節、僕はそこに居た。
脱力していた。苦しさを紛らすために詩を書いていた。
そのとき僕は木になりたかった。
雨にも風にも負けず、大地に根を張る、そんな木に。
ただ立ち尽くして居たかった。

その想いが再び突然蘇り、僕を激しく叩いた。
強い風も僕を叩いた。
木はまだそこにあった。
ぐちゃぐちゃに泣いた。
最近は本当に泣き虫だ。
馬鹿。
それで王将へ行って焼き飯と餃子を食って帰った。

朝起きると昨日の苦悩が嘘のように抜けていた。
素直な気持で文章に向かい、それを完成品と看做すことにした。
満足だった。
気分が良かった。抜けた。
しばらくこれで食っていけそうな気がする。
金銭的な面じゃなくて精神的な面で。。。

秋の透明な光に浄化された空気。
それをたっぷり吸っておこう。

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「倫理の行方」
お暇なら読んでみてやってください
コメントも歓迎

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2003/9/25 (Thu) 人と共に生きるということ
一昨日書きあがった投稿用の文章を友人らに読んでもらいコメントをつけてもらった。どうもボヤッとして言いたいことが判らん、という反応が返ってきた。自分が如何に視野を狭くしているかを痛感した。書きながら随分頭が整理されていい方向には向っている。だが「仕事」としてはあまりに不完全だ。

鬱気味で頭がぼんやりしていたのだろう。目を覚まされたような感覚があった。心地よい。久しぶりに仕事をしている感覚だ。言葉になりきらずに頭の中でとぐろを巻いているものを白日にさらす、それが今の僕には必要だ。

ただ投稿の締め切りが目前にせまっていることもあってちょっと呆然とした。いざ再検討に取り掛かり始めるとこれは大仕事だな、と。。。再び暗い所へ沈んでいきそうになった。

根を詰めるのをちょっと止めてみる。昔の写真をHPにアップしてみたりするうちに少しは気が楽になった。飯を食いに出たら「ブラックジャックによろしく」という漫画が置いてあった。さっと読んでみただけだが面白かった。

若いナイーブな研修医が、配属された病院で「倫理」の問題にぶつかる。組織の体面を保ち、自分の利得を増やすことのみにこだわり、患者を処理するモノとしてしか認識しない先輩の医者達に対して感じる憤り。NOを言うことによって降りかかってくる圧力。過酷な研修医の仕事の中で味わわされる苦悩を描いている。常に死と向かい合う状況で人は何を想うか?何を取るか?マヒ・思考停止か、それとも苦悩か?

僕がぶつかった壁などはそれに比べれば随分低かった。それでも、本質的な問題の構造はあきれるくらい同じだ。そこで何を取るか?主人公は自分の患者に対する義務、患者との人間的な関係を取った。

矛盾は沢山ある。肉体的限界もあるし、全ての患者に対して完璧な対応をすることはできないだろう。だからといって、面倒見れないならどうせ同じことだ、と言って患者を処理すべき対象として見ることにするのか?

ニヒリズム。それは無意識に浸透する。それは諦めに見せかけたサボり。それは甘え。明らかに蔓延っているのだけどそれは巧妙な論理で隠される。ニヒリスト達は全てを判ったような顔をする。諦めることによって。でも本当は人間が生きている以上、誰も諦めることなんて出来やしない。だから彼らは諦めた振りをしながら、偏った形の自我をどこまでも拡張させようとする。金、地位、力。彼らは心の中では自分が世界の王様だと信じている。

確信犯的ニヒリズムの存在を僕は信じない。ニヒリストは皆確信犯のようなつもりでいるけれど。彼らが絶対的な価値を持たない以上、自分自身の価値を相対的座標でしか測れない。そこで用いられるのは金と職位と論文数(!?)。そうしてそれが相対的である以上、不安は永久に消えない。不安を動機として生きるものは確信犯ではない。

弱き人達よ。ルサンチマンに呑まれずに生きよう。上に居ると思う人たちは実際のところ不幸かもしれぬ。あなたを劣っていると決め付ける人はニヒリストだ。ニヒリズムに堕ちてもそこに希望は無い。安楽な生活のなか、死まで逃げ果せるニヒリストもいるかもしれない。だが彼らの実際を見よ。その金の量でなく。その表情を。

汚れて汚れて汚れた魂をもう一度洗おう。洗い続けるのが生命だ。汚れるに任せ、エントロピーを増えるままにする存在は、生物としての役割を終えている。遠からず滅んでしまうだろう。

人と共に生きるということは、自分を信じることから始まる。信じるためには何でもいいからとりあえず目一杯やること。めげることなんて山ほどある。それがない人は滅茶苦茶ラッキーだ。めげたら泣こう。めげたら歌おう。めげたら木に触れてみよう。少しずつでも元気を増やそう。「どうせ意味が無い」なんてことは言っても意味が無い。本当にヤバイときには、そう、逃げよう。

John Lennonをもう一度聴いて見ませんか?

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2003/9/28 (Sun) 金木犀
再び秋晴れ。
二、三日前から金木犀の香りが漂うようになった。
僕はこの季節を待ち望んでいた。
感覚が解放されていく。まるで氷が解けるように。
桜や蛍や紅葉もいいけど、僕はともかくこの香りが好きだ。
空気の感触がたまらなく愛しく思える。
何故かは説明できないのだけれど。
この日のために京都に来たと言ってもいいくらい。
京都には庭木に金木犀を植えているところが多い。

やっと投稿用の原稿の目処が立った。
一旦は完成したと思っていたが、ほとんど丸々改編した。
締め切りが近い。ここ数日、一日中パソコン画面を眺め続けていた。
たかが原稿用紙10枚のために、どれほどの時間が費やされるか。
書いては消し書いては消し、
何か考えが浮かんではノートに慌てて書き込み、
頭がボーっとしてきては横になって宙を眺め、
一体自分は何をしているんだろうかと苛立つ。
タバコの吸殻は山となる。
一歩も前に進まずにいるとき、それはもう本当に拷問だ。
こんなことしてるくらいなら、
河原へ出てぼんやり水飛沫でも眺めていたいのに。
一気に自分を詰め込もうとしすぎているのかもしれない。

でもどこかに奇妙な確信がある。
バンクーバーで誰にも相手にされないまま、
電池電圧の理論解析ソフトを作ったときだって同じだった。
半年の間、前も後ろも見えなくて無茶苦茶苦しかったけれど、
あれだって最後はちゃんと完成させたじゃないか。
結果的には文句ないレベルだった。鼻で笑った奴、ざまあ見ろ。
大丈夫。いつかはどこかに辿りつく。
必死に闘って生きてる時間は無駄じゃない。

ギュウギュウと詰め込まれた魂を
拾い上げることができないとしたら、
あとはもう受け取り手の問題だ。
判らんヤツは相手にするな。
そう、むしろ自戒せよ。
どんなものにとてつもない魂が刻まれているか判らないものだ。
一点、一画に命が篭められていることだってある。
それを判るようにいつも感覚を磨いていなくては。

書き始めたことで何かが動き始めたのは確かだ。
これを種に、友人達と随分たくさんの深みのある話をできた。
それこそ生きている喜びではないか。
仕事をすること、そう、この感覚。
あぁたまらん。

さあて、気分転換に泳ぎにでも行こうか。
この空気を堪能しながら。

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